westergaard 作品分析

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トイストーリー4考察 <初期設定>と<子どもの作るストーリー>:「役者」としてのおもちゃの「予定調和」からの卒業

はじめに

トイストーリー4は公開以来、色々な評価がされていることは言うまでもないが、私は自分なりにどういう記事にまとめようかずっと悩んでいた。

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Dolly: "Okay, what is it with everyone jumping out the window?"

「これまでのキャラクターたちの登場シーンが少ない」ことも問題視されているが、逆に登場シーンが少ないにも関わらずそこで喋る台詞には意味があるだろう、と考え彼らに注目しながら3回目を鑑賞した時に2つの台詞が引っかかった。

1つは、ミスタープリックルパンツの「I don’t wanna play a baker role. The hat shop owner is what I’m born to play.(パン屋の役はやりたくない。帽子屋さんこそ自分が生まれつき合ってる役だ。)」という台詞。

もうひとつは、ドーリーの「What is it with everyone jumping out the window?(みんな窓から外へ飛び出すけど、いったいなんなの?)」という台詞。

この2つのセリフが、私がずっと考えていた「ウッディにとってのアンディとはなんだったのか?」「なぜウッディにとってアンディが重要だったのか?」という問いに対する答えへのヒントをくれた。

この記事では、それらを踏まえた私なりのトイストーリー4の考察を紹介してみようと思う。

 

端的に言えば…

私がトイストーリー4を、一文で説明するなら、
「『スター役者』として生きていたウッディが、突然舞台裏でのスタンバイを強いられ、『役:role』を与えられなくなり生きる意味を見失うも、『物語:ストーリー』から解放され、現実世界で『自分自身として』生きる選択をする話」
である。

ここでは《初期設定》《子どもの作るストーリー》という2つの観点から、「おもちゃ=役者」という視点を取り入れて分析、考察する。

分析の対象は、トイストーリーの長編4作に、中編の「トイストーリー謎の恐竜ワールド(Toy Story: That Time Forgot)」を加えた5作品。

 

トイストーリーにおける「遊びのシーン」:《子どもの作る物語:ストーリー》において《おもちゃ=役者》

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Andy's Playtime

1作目から3作目には必ずアンディによる遊びのシーンがある。
1作目は冒頭に現実世界のアンディの視点で。
2作目はアンディがキャンプに出かける直前に現実世界のアンディの視点で。
3作目は冒頭にアンディの空想世界の視点で。

3作目の遊びは、1作目と2作目での要素を足して、ボーピープがいなくなり、さらに2作目の最後に合流したジェシー、ブルズアイ、エイリアンズも登場する設定になっていたが、なによりも3作目での新しさは、初めてアンディが頭の中でイメージしている空想上の世界観が再現されたことだ。

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これを見てわかるように、ウッディたちが「アンディにおもちゃとして遊ばれる」ということは、「アンディが作るストーリーの役者である」ということとほぼ同義である。

f:id:ikyosuke203:20190727230405p:plainおもちゃが「役者」であることを強調するのは、3作目で初めて登場するボニーの部屋のおもちゃたちである。彼らは、ボニーの作るストーリーにおける役者だと認識していて、自分たちをその役に当てはめて即興劇をする。中でもミスター・プリックルパンツは初登場シーンから自分の役に「入っている」から邪魔しないでくれなどという台詞すらある。

そして今回4作目では、彼は話のメインパートである、「ロードトリップ」に連れて行かれない数少ないおもちゃのうちの1つのため、登場シーンはボニーが家を出る前の映画のごく最初の部分のみ。

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(参考)ボニーのおもちゃのうち…

  • ロードトリップに連れて行かれるおもちゃ:
    フォーキー、ドーリー、バターカップ、トリクシー

    (元アンディのおもちゃ)ジェシー、ブルズアイ、バズ、ミスター&ミセスポテトヘッド、レックス、スリンキー、ハム、ウッディ
  • 部屋に残されるおもちゃ:
    ミスタープリックルパンツ、エイリアンズ、クローゼットのおもちゃたち

ちなみに、家に残っているおもちゃたちがあまりにも限られているので、ピクサー作品のディスク版リリース時によくある、「本編でメインストーリーの進行中、見えていない場所で何が起こっていたかを描く短編」としてエイリアンズとプリックルパンツの短編が作られているんじゃないか、と予想しています。

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なんといっても、3作目のエンドロールで「ロミジュリ」をやっているこの4人ですからね。。。笑

 

おもちゃが子どもに演じさせられる《role:役割》と、製造時の《設定》

4作目におけるミスター・プリックルパンツは、非常に短い登場シーンにおける数少ないセリフのうちの1つとして次のような発言をする。

「I don’t wanna play a baker role. The hat shop owner is what I’m born to play.(パン屋の役はやりたくない。帽子屋さんこそ自分が生まれつき合ってる役だ。)」と。

プリックルパンツが、役者的に生きていて、演じることに対してこだわりがあることは3作目で強調されていたため、それをなぞる形でのギャグであることは確かだが、それでもわざわざこれをセリフとして加えるからには理由があるはずである。

特にこのシーンは、ウッディが自分自身のいまの役割に満足できないシーンであり、このパン屋の役が不満であるプリックルパンツはその投影であると考えるのが妥当であろう。

ではこの「role:役割」とは何であろうか?
もちろんプリックルパンツが話しているのは「ボニーが遊ぶ際に、空想している世界観」の中での「role:役割」だ。

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しかし、ウッディの場合はどうであろうか?ウッディはいま、ボニーの部屋では「選ばれない」ため、何の役割も与えられていない。

では、アンディの元ではどうだったか?ウッディは必ず「主役」「ヒーロー」で悪者の「ドクター・ポークチョップ」を倒したり「ボーピープ」を助けたりしていた。

このように考えると、いまボニーの家でウッディが不満なのはもちろん「遊ばれていない」ことなのだが、何の「役割も演じられない、与えられない」=「何にもなれない」ということによるのかもしれないと考えられる。

もちろんウッディは何もしなくても「シェリフ・ウッディ」と保安官である。しかしその「シェリフ・保安官」を示すバッジさえ取り上げられて、ジェシーに付け替えられてしまうのだ。ボニーの世界では「シェリフ・保安官」はジェシーになってしまっているのである。

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この「シェリフ」と言う「role:役割」は、プリックルパンツが「パン屋」をやるのとは少し次元が違う話である。なぜならウッディは<も・と・も・と>「シェリフ」として設定されているからだ。
ちょうど、バズ・ライトイヤーが悪の帝王ザーグを倒す「スペースレンジャー」として設定されていたように。

 

これらのことを整理して話をするには、トイストーリーの1作目や2作目での描かれ方を検証する必要がある。

 

トイストーリーにおける三層の「ストーリー」の構造

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トイストーリーという映画においては、基本的に

(層1)アンディやボニーたち人間のいる世界で起きている出来事
:基本的にはトイストーリーという映画の中ではこれがメインに描かれる

(層2)アンディやボニーたち子どもが遊ぶ際に空想する世界の中でのストーリー
:《子どもが作るストーリー》

(層3)おもちゃに対しメーカーに設定されたストーリー
:《初期設定のストーリー》
:「ウッディのラウンドアップ」「スペースレンジャー・バズ・ライトイヤー

3つの層の重なりで構成されていると考えられる。

 

1作目で、バズ・ライトイヤーは(層3)の《初期設定のストーリー》が現実だと思い込み、自分がホンモノの「スペースレンジャー・バズ・ライトイヤー」であると考えていたものの、ウッディとの冒険を通して自分がおもちゃであることを自覚し、受け入れる。おもちゃであることを受け入れる過程で、ウッディが「おもちゃであることの素晴らしさ」を語る。それは次のようなセリフだった。

f:id:ikyosuke203:20190729010257p:plainBeing a toy is a lot better than being a Space Ranger.
(おもちゃであることは、スペースレンジャーであることよりずっと良いんだ。)
*中略*
Look, over in that house is a kid who thinks you are the greatest, and it’s not because you’re a Spac Ranger, pal, it’s because you’re a TOY! You are HIS toy.
(見て、あの家の中には君のことを最高なやつだと思ってる子供がいるんだ。それは君がスペースレンジャーだからじゃない、おもちゃだからだよ!君は彼のおもちゃなんだよ。)

 

2作目では、ウッディの《初期設定》が明かされ、ウッディ自身が再び《子どものおもちゃになる・である》ことを再度選択することになった。

 

《初期設定》とは何か、逆に《子どものおもちゃになる》とはどういうことか?:3作を通して描かれたウッディの考え方

【1】トイストーリー2において「博物館に行く」のではなく「アンディの元に帰る」決断をしたことの意義:<「永遠の命」vs「有限の人生」>ではない観点から

ウッディは自分自身の初期設定は「なぜか」忘れており、2作目でアルに誘拐された先でジェシーたちと出会い初めて知ることになる。
(この理由は結局4作目でも明かされなかったため、今後の短編や中編、あるいは続編で触れられる可能性は十分にあるだろう。なにせ彼が1950年代後半に製造されているならその人生の大半はまだ語られていないのだから。)

自分の「ウッディのラウンドアップ」の一員としての意識と、「博物館で永遠の命を手に入れる」という考えが、アンディの元へ戻ることに対立する誘惑となるも、1作目の時に自分がバズへ説いた「おもちゃは子どもを幸せにして初めて意味がある」という言葉に、ハッとしてアンディの元へ帰る。

 

この2作目におけるウッディの選択は、ストーリーの構成上どうしても「子どもは成長しいつかはおもちゃはいらなくなる」「いつかは捨てられたり、寄付されたりするかもしれないという <有限性の中で生きること> を受け入れたという選択であることが強調されている。そしてそれが3作目への直接的なつながりになる。 

 

参考)
(1)ジェシーの過去を知ったウッディに対してかけるプロスペクターのセリフがこれ。

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PROSPECTOR:
Andys growing up . . . and theres nothing you can do about it.
アンディは成長する…それは君にはどうすることもできない。
Its your choice, Woody.
自分の選択だぞ、ウッディ。
You can go back, or you can stay with us and last forever.
アンディの元へ戻ることもできるし、私たちといれば永遠に生きることができる。
Youll be adored by children for generations.
何世代もの子どもたちに愛されるんだぞ。

 

(2)そしてバズとの会話においては彼の考えがウッディの中に内面化されているのが次の会話でわかる。

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WOODY: Look, the thing is . . . Im a rare Sheriff Woody doll, and these guys are my Roundup gang.
ウッディ:見ろだからな、オレはレアなウッディ保安官人形で、こいつらはオレのラウンドアップの仲間たち。

BUZZ: Woody, youre not a collectors item. Youre a childs plaything. You are a toy!
バズ:ウッディ、君はコレクターアイテムじゃない。子どもの遊びのためのものだ。おもちゃなんだ!

WOODY: For how much longer?
ウッディ:それはいつまで続く?

BUZZ: Somewhere in that pad of stuffing is a toy who taught me . . . lifes only worth living if youre bein loved by a kid. And I traveled all this way to rescue that toy . . . because I believed him.
バズ:いつか詰め物をした奴(ウッディ)が私に教えてくれた。おもちゃの人生はひとりの子どもに愛されている状態になって初めて価値がある、と。そのおもちゃを助けるためにここまで遥々旅して来た、彼を信じていたからだ。

WOODY: I dont have a choice, Buzz. This is my only chance.
ウッディ:オレには選択の余地がないんだ、バズ。これが唯一のチャンスなんだ。

BUZZ: To do what, Woody? Watch kids from behind the glass and never be loved again? Some life.
バズ:なんのチャンスなんだ、ウッディ?子ども達をガラスの向こう側から眺めて、一生愛されないためのか?大した人生だな。

 

(3)これらを経てウッディは決断をする

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WOODY: You're right, Prospector. I can't stop Andy growing up. But I wouldn't miss it for the world.
ウッディ:あんたは正しい、プロスペクター。確かにアンディの成長は止められない。でも、何としてもそれを見逃すわけにいかないんだ。

 

しかし、この決断は単純に「博物館に行く=永遠の命を手に入れる」と「アンディの元へ戻る=有限の人生を受け入れる」というだけではない意味が含まれている。

 

これを解釈するには、ジェシーがどういう状況にあったかを振り返る必要がある。なぜならこの時点でのジェシーは、ウッディの未来シミュレーターでもあるからだ。

ジェシーはエミリーという少女の持ち物で、アンディがウッディを愛したのと同じかそれ以上に大切にされていた。しかしエミリーは成長し次第にジェシーに対する関心を失って行く。ベッドの下に長らく放置された後、エミリーはジェシーをチャリティ行きの不用品として箱に入れて去ってしまう。ジェシーはこのことがトラウマになり、プロスペクターたちと博物館に行ってラウンドアップのシリーズ商品として展示される人生を望んでいたが、それもウッディが揃わないことによって叶わずにいた。長らく倉庫の中に置かれていたことから暗闇対する恐怖心は人一倍強く、トイストーリー3で屋根裏に連れていかれることや、トイストーリーオブテラー、トイストーリー4の冒頭のクローゼットのシーンでもそのことがまだ影響している様子が描かれる。

ジェシーの過去として描かれる、サラ・マクラクランの名曲When She Loved Meにのせられた回想シークエンスは、ウッディの未来のシミュレーションでもあり、それを知った上でもバズを通して自分の声を聞いたウッディは上のような決断をし、ジェシーも一緒にアンディの元へ行くように誘う。その時の口説き文句がこれだ。

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WOODY: Hey, you guys, come with me.
ウッディ:ねえ、君達も、一緒に来いよ。

JESSIE: What?
ジェシー:え?

WOODY: Andy will play with all of us. I know it!
ウッディ:アンディはオレたちみんなと遊んでくれるよ。絶対!

JESSIE: Woody, I-I . . . I don’t know. I . . . 
ジェシー:ウッディ、私、…わからないよ…

WOODY: Wouldn’t you give anything just to have one more day with Emily? Come on, Jessie. This is what it’s all about: To make a child happy.
ウッディ:エミリーともう1日遊べるとしたらなんだってするだろう?おいでよジェシー。これが全てだろう。一人の子どもを幸せにするってことが。

 

ここでウッディはジェシーを説得しているようで、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえます。

一度エミリーの成長によって捨てられたことで、その有限性のある人生に対するトラウマを持ったジェシーを再び有限性のある人生へと誘っていることは、同時に自分がそうなるという有限性を受け入れる覚悟の表明でもあると捉えられるからだ。

しかし、この<永遠の命>と<有限の人生>という対比による誘い文句だけではジェシーがアンディのところへ来るわけではない。これはストーリーの展開上そうなっているだけ、と言われてしまうかもしれないが、映画として描くにあたってこれだけで葛藤を終わらせなかったのには意義があると考えられる。

 

では、「博物館に行く」と「アンディの元へ戻る」という選択肢の<無限性>vs<有限性>ではない意味とはなにか。

それが現れているシーンが2作目のクライマックスに当たる「ジェシー救出シーン」だ。このクライマックスの救出は現実世界で起きていること(層1)と設定されたストーリー(層3)が重なる形で描かれるのがポイントだ。

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空港で、離陸する飛行機に乗せられる荷物からジェシーを救出する際、ウッディとバズはブルズアイに乗ってラゲッジトラックを追跡する。このシーンの背景にかかっている音楽は、ウッディがジェシーたちとアルの部屋で視聴していた「ウッディのラウンドアップ」の番組内でウッディが、爆発する炭鉱に閉じ込められたジェシーとプロスペクターを助けに行く際にブルズアイに乗って走っている時の曲と同じだ。

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ウッディのラウンドアップは、1957年のソ連人工衛星スプートニク」の打ち上げ成功によって、世界の関心が宇宙のことへ移った結果、人気がなくなり番組自体が打ち切りになった。劇中で描かれたウッディがジェシーたちを救出しに行くエピソードは打ち切りになる直前の最後のエピソードだったが、実際助けられたかどうかが明かされる次のエピソードは放送されなかった。

このことが、現実世界(層1)の救出シーンにおいてもジェシーとの会話で言及される。

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WOODY: Jessie, let go of the plane!
ウッディ:ジェシー、飛行機から手を離せ!

JESSIE: What? Are you crazy?
ジェシー:は?ふざけてるの?

WOODY: Just pretend its the final episode of Woodys Roundup.
ウッディ:ちょっと「ウッディのラウンドアップ」の最終エピソードだと思ってやってみるんだ!

JESSIE: But it was canceled! We never saw if you made it!
ジェシー:でもそれはキャンセルになったの!あなたが成功したかどうか見られてないの!

WOODY: Well, then lets find out together!
それなら、どうなったかを一緒に確かめてみようぜ!

 

これがアンディの元へ行くまでの最後の会話となる。逆に言えばここでの会話と行動によってジェシーの心は決まったとも言える。(もちろん、この時納得しようがしまいが手を離さなければそれこそ大惨事なわけだが…そのことは考慮しない)

つまりジェシーに対して一番説得力があったのは

「Well, then let's find out together!(それなら、どうなったかを一緒に確かめてみようぜ)」というセリフ。

彼らの<初期設定>としての「ウッディのラウンドアップ」は放送打ち切りにより結末が示されていない。もちろん子ども向けの番組であるのだから、“ウッディは無事に間に合ってジェシーとプロスペクターは無事に助かりました”、というハッピーエンド、予定調和(established harmony)が訪れるであろうことは誰でも想像できる。

しかし、予定調和は描かれず、ウッディは現実世界で飛行機から飛び降りる決断をする際に、一緒にその結果を確かめよう、というのである。

これはつまり、初期設定として他人に用意されている「ウッディのラウンドアップ」のストーリーに乗るではなく、そこから飛び降りて、現実に直面しようという決断とも取れる。

ではなぜ、ウッディはその現実に直面することを選び、それをジェシーにも進めるのか?それはアンディがいるからだ。

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ではアンディとはなんなのか?

実際、3作目では、プロスペクターが説いていた見通し(英語では prospect)のように、アンディは大人になりおもちゃとは遊ばなくなってしまったことが示される。

しかし冒頭でウッディたちの幸せな日々として描かれるシーンは、アンディのつくるストーリーの中で実際に「生きている」ウッディたちが展開する「<拡張型>西部劇」だ。

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白黒の操り人形と書き割りのセットで描かれていた「ウッディのラウンドアップ」をはるかに超えるフルCGの世界観で展開されるアンディのつくるストーリーには、おもちゃのメーカーが想定したシリーズに関係なく、さらには本来貯金箱であるはずのハムがドクターポークチョップとして登場したり、ゲームセンターの景品のエイリアンが妹の所持しているバービーの車を運転してきたりする。

子どもの想像する世界で展開されるストーリーは、テレビ番組として作られるストーリーよりもずっと創造性に富んでいて面白いし、楽しいし、プロダクションが打ち切られることも、制作費用の制約や、版権の問題も何もない。

だから「アンディが成長することを止められなかったとしても、それを見ずに逃すことはできない」のだ。

実際そこにはウッディと一緒にあの時「ラウンドアップの最終回」として飛行機から飛び降りたジェシーも一緒にアンディの世界での「役者」として「生きて」いる様子が描かれていた。

 

端的に言い換えれば、ウッディは「有限性の中で生きる」という制約を受け入れてでも「子どもの作る物語の中で生きること」を選択したということだ。アンディと一緒にいるというのはそういうことだ。
ラウンドアップ」の一員として展示されていればウッディは、「ラウンドアップの主人公のシェリフ・ウッディ」でしかない。他のなにでもない。

しかしアンディの部屋にいれば、ウッディはウッディでもアンディが想像するどんな役にでもなれる。

 

【2】トイストーリー3においてウッディが「アンディの元に帰る」ことに固執した理由:同時に「ボニーの元へ行く」ことで期待した「予定調和」

ウッディの場合、問題は、そのあとだった。

アンディの部屋にいればアンディが想像するどんな役にでもなれたが、そのアンディが大人になりおもちゃで遊ばなくなった時、何にもなれなくなった。

だから彼は次に「アンディのおもちゃであること」に重きを置いた。そのためあの時点での彼に保育園で生きるという選択肢はあり得なかった。

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それがあの保育園での1人での脱出シーンにも現れているのだと考えられる。もちろんあれは他のおもちゃたちが捨てられたと勘違いしているから、という側面も大きいが、ウッディにとって保育園で生きることはありえなかったのである。仮にチョウチョ組だったとしても。

そんなウッディも、アンディのところに戻っても遊んでもらうことはできないということは自覚している。そんな中、出会ったのがボニー。

ボニーはアンディと同様、おもちゃをいろんな役に見立てて自分で展開する物語の中で遊ぶ子どもだった。前述の通りおもちゃたちは自分たちを「役者」だと思っていた。

だからウッディは、バズやジェシーたちをアンディの家の屋根裏ではなく、ボニーたちの元へ送るように仕込んだし、自分自身もそこへ行く決断をした。その方が「幸せ」だろうと考えたからだ。それは「ボニーならアンディと同じようにおもちゃを役者に見立てて色々なストーリーを展開しながら遊んでくれる」と考えたからだろう。

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これはアンディも同じ視点であると考えていて、アンディが安心してウッディたちをボニーに譲ったのは、ボニーがアンディと同じように物語を作ってその中でおもちゃたちを「役者」として遊んでいたからだということが、その様子を最初に目にした時の彼の微笑んだ描写から読み取ることができる。

また、ボニーがおもちゃを「役者」に見立てておもちゃを遊ぶ人であることの重要性が強調されるのは「トイストーリー・謎の恐竜ワールド(Toy Story That Time Forgot)」でもそうだ。

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ここでは、クリスマスに金持ちの家の子どもにセットで買い与えられたバトルザウルスたちが、1作目のバズのように自分たちを本物のバトルザウルスだと思い込んでいて、一匹だけおもちゃであることを認識しているCleric(「聖職者」という意味の名前:つまりこれは「宗教」のメタファーだろう、ピクサーにしても攻めたものだ)が、それ以外のおもちゃたちを恐竜だと思い込ませたまま支配している世界が描かれた。そこでボニーのおもちゃである恐竜のトリクシーが、仲良くなったレプティラス・マキシマスに自分がおもちゃであることを自覚させると同時に、「おもちゃであることがどれだけ素晴らしいことか」を説くという、1作目でウッディがバズにやったことと同じことを繰り返す。

この時トリクシーが、自分のことを「恐竜」として遊んでくれないボニーに対して不満を抱いていたにも関わらず、おもちゃであることを認識させるために彼を説く過程で、自分がボニーの想像によって何にでもなれるということの素晴らしさに気づいていく様子がシリーズとしてはパロディ的に描かれていく。

トリクシーがアンディからの貰い物ではなく、もとからボニーのおもちゃだったことは、ボニーがアンディと同様におもちゃたちがその喜びを自覚するくらいに愛し、その遊び方で遊んでいるということがはっきり示されたと言って構わないだろう。

 

【3】トイストーリー4:「予定調和」が崩れた時、「心の声」に気づく

しかし問題は、ウッディが想定していた、ボニーなら自分たちみんなと遊んでくれるだろうという予定調和が現実にならなかったことだ。

この予定調和は、ウッディの想定していた「予定調和」であると同時に、我々観客やおそらく製作したピクサー側も想定していた「予定調和」であると考えられる。この「予定調和」が破られた前提で物語がスタートし、さらにシリーズとしての「予定調和」を崩しに行くのだから受け入れられない人が出るのは当然かもしれない。

 

ここが4作目の冒頭で提示されるウッディ・ネグレクト問題。

ウッディにとって遊んでもらうとはある意味役者のプリンシパルになること。スタンバイではダメなのだ。しかも今まではずっとスターで主役を張っていた。

ウッディにとっては他のおもちゃたちと違って、単純に遊んでもらえないという意味だけではない。彼の場合、役者として「ショー」に出られないなら、物語の中での役割をもらえないなら、生きている意味が見出せない、という状況になっていたのだ。

ウッディの視点では「ラウンドアップのショーのスターとして生きる」こともできたが、その代わりに、「アンディ劇場のスター」として生きる選択をしたが、「ボニー劇場では舞台裏でスタンバイ」のような立場になっているという認識だと考えられる。

これがアンディに固執した、言い換えれば「役者」として生きることに全てを懸けてきたウッディの成れの果てである。誰かに「役:role」を与えてもらわないと生きられなくなってしまっていたのだ。

 

空想の世界(層2)での「役:role」を与えてもらえなくなったウッディは、ボニーを助けるという現実世界(層1)での役割を見出だそうとするもドーリーに止められる。しかしウッディは「それしかすることがない」のでルールを破ってリュックに入って行き、リスクを冒してボニーを助ける。そこで生まれたのが「フォーキー」。

これ以降は「フォーキーが自分からゴミに戻っていかないようにする」ということがウッディの新たな「役:role」になっていく。

そしてウッディが言うには「自分の中の小さな声がこれ(フォーキーを助ける役割)を投げ出したらダメだと言っている」と言うのだ。

そして、この直後にフォーキーが「自由になるため」に窓から飛び出し、それを追いかけてウッディも窓から飛び出す。

日本語では「心の声」と訳されているこのinnner voiceが意味するところはなんなのだろうか。

ここからはこれを検証していく。

 

《窓から飛び出す》とは何か

【1】ボー・ピープは「ショー・"ウィンドウ"」から飛び出した

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この記事の冒頭で、私に気づきを与えた2つのセリフのうちの一つとして、ドーリーの「What is it with everyone jumping out the window?(みんな窓から外へ飛び出すけど、いったいなんなの?)」を挙げた。

これはもちろん、フォーキーが窓から飛び出し、追いかけてウッディが飛び出し、そしてバズまでもウッディたちを探しにいくために飛び出したことについて、半分呆れながらしている発言だ。しかし、わざわざ窓から飛び出すことについて言及している意味はなんだろうか。

Twitterのフォロワーさんの一人 @10Ru_a_tnk さんがこのようなツイートをしていた。

窓から飛び出したおもちゃたちのうち、ウッディ以外は帰って来ることを指摘し、ウッディがフォーキーの言ったように「freedom」になった、という観察だ。

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窓から飛び出す、という言葉に着目して映画をもう一度鑑賞した時、冒頭のRC救出シーンも窓からウッディがスリンキーに乗って飛び降りる。しかし窓から中に入ろうとした時、アンディのママがきて閉められてしまう。

その時、ボー・ピープは箱に入れられ別の持ち主の元へ連れていかれてしまうことに気づいたウッディは、窓から戻らず、車の下に置かれたボーの入った箱へ向かう。

このときウッディは、次の持ち主の元へ行くことを受け入れているボーに一緒に来ることを誘われる。これは明言されていないが、ボーピープは「子どもは日常的におもちゃを失くす。時には庭におき忘れたり、時には入れる箱を間違えたり…」と言い、自分のとなりに空間があることを手で示す。ビリー、ゴート、グラフも後ずさりし空間を作る。ウッディは「その箱はどこかへ持っていかれる」と言って、ボーの提案を理解し、受け入れ、実際に箱に入ろうとフチへ手をかけるが、その瞬間アンディがウッディがいなくなったことに気づいて外へ探しに出て来る。

ウッディはこの時、一緒に箱に入っていれば、ボーと同じように早いうちに「freedom」になれたかもしれなかったが、それは選ばなかった。結局この時はアンディが探しに来てくれて、中に戻ることになった。これが冒頭で描かれたことだ。「窓から出て行き自由になれたかもしれなかった」エピソードと言える。

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時系列的に、次に窓から飛び出したのは実のところ、ボーであると考えられる。

ボーが窓から飛び出したシーンは映画の中では描かれないが、ボーのランプはアンティークショップの通りに面したショーウィンドウに置かれていた。

あのアンティークショップの店主マーガレットばあちゃんは全然在庫管理ができていないので、おそらくボーのランプはずっとあの場所に置いたまんまであろうから、ボーが2、3年あのアンティークショップにいたときからずっとあそこにあったと考えられる。

通りに面したショーウィンドウに飾られていたボーは何を見ていただろうか。あの街にも子どもたちは住んでいたようだから、きっと「子どもたちをガラス越しに見て、誰かに愛されることなく」、「埃をかぶり続けていた(4作目のボーの台詞より)」と考えられる。

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「子どもたちをガラス越しにみて、誰かに愛されることなく(2作目のバズの台詞)」過ごしていたかもしれないのは、博物館に行っていた場合のウッディであり、「埃をかぶり続けていた」のはジェシーである。

ボーはウッディが体験したかもしれない両方の体験を同時にしていたのだと考えられる。あるいはアンティークショップにたどり着くまでにもっと悲惨な体験をしていたのかもしれない。私たちには見せられていないが。

この辺りについては今年末にアメリカでローンチされる配信サービス「Disney+」のスピンオフシリーズ「Lamp Life」としてボーピープの4作目の回想シーンから再登場シーンまでの間の人生を描く作品が公開されることがアナウンスされているのでそこで明かされるかもしれない。

 

【2】ボーは2つの意味で「free」になった

 とにかくボーは、待っているだけの人生には耐えられず、「jumping out the window」して、フォーキーがそれを目指したように確かに「freedom」になったのだ。

しかしボーの場合の「freedom」は「おもちゃとして遊ばれること」を捨てたのではない。

この点については、4作目の劇中でボーが遊ばれているのはウッディと再会するあの一瞬だけ、おそらく30秒以下であるため、ボーが遊ばれている人生であることはほとんど強調されないのでわかりづらい。しかし、ボーは「特定の子どもの持ち物」として生きることをやめただけで、「遊ばれること」はやめていないし、むしろ「遊ばれ続けるため」にいつ壊れてもいいように準備したり、長距離人に気付かれずに移動するための手段を備えていたりしているのだ。

ウッディが最後にあの選択をした後、「子どもに遊ばれない人生」を送っているのではなく、むしろ不特定多数の子どもに遊ばれまくっているということも同時に示している。

では先ほどまで論じていた「子どもの作るストーリーの中で生きる」話とどのようにこれが関係するのか?

「ウッディのラウンドアップ」の世界で生きることではなく、アンディのつくるストーリーの中で生きることを選択したウッディは、アンディの元にいる限り、アンディの世界の中である程度一貫したストーリーが組み立てられその中で「役者」を演じ続けることができた。しかし不特定多数の子どもと遊ぶということは、いろんなストーリーの中に身を置くことを意味する。

このようにまずは、一人の子どものおもちゃとして生きる=一つのストーリーの中だけで生きることから「自由」になった。

もう一つの意味での「自由」は、文字通りどこへでもいけるし、おもちゃとして遊ばれる以外にも一人の個人として生きられるという意味でだ。これについてはまた後ほど触れる。

 

《初期設定》が生じさせる「生きづらさ」を抱えるアンティークトイたちが解放される時:デュークが決めたジャンプの意味

そんなボーに助けられフォーキー救出に当たるウッディだが、その過程でいろいろな<初期設定のストーリー>に縛られ生きづらさを抱えているおもちゃたちに出会うことになる。

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デューク・カブーンは、「コマーシャル」のようにジャンプを決められなかったせいで開封直後に持ち主に捨てられ、今でもそのことがトラウマになり自分自身に自信が持てないでいる。

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ギャビーギャビーは、製造時から紐を引いて声を出すプルストリングのボイスボックスに製造欠陥があり、うまく声を出せない。そのためおそらく製造された後今まで60年間ずっと毎日自分の <設定> の描かれた絵本を繰り返し読み、ボイスボックスさえ手に入ればその絵本に描かれている通り、子どもに愛されると思っている。
そして今いるアンティーク店の店主マーガレットの孫であるハーモニーに愛されるはずだと思って毎日化粧をし、絵本に書いてある通りのティータイムごっこの練習をしている。それが「予定調和」だと思って疑わないからである。

ちなみに「予定調和」は英語で「Established Harmony:作り上げられたハーモニー(調和)」だ。『ハーモニーのものになる』とはまさにギャビーが作り上げた予定調和なのだ。私がこれまで「予定調和」を強調して来たのはここに通ずるからだ。

それぞれ、自分が生まれる前に製造する側の人間によって作られた設定に縛られているからこそ、現在の自分の在り方に納得できず、生きづらさを抱えていると言える。

 

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ではデュークカブーンが最後に観覧車からのジャンプをすることはどういう意味があるのだろうか。

あのジャンプは、過去の<設定>や、それによって生じたトラウマを克服できさえすれば、ボーの言葉で言えば「今の自分になれる」。そうすれば、今まで自分にできるはずがないと思っていたことさえできるようになるということである。

過去に縛られ、自分が期待していた予定調和に裏切られたことに傷ついている、ウッディやギャビーの目の前で、飛べないから生きる意味がないと思っていたカブーンが飛ぶことで、彼らに勇気を与えることになる。

だからこそ、ギャビーはそれまで一度もやったことがなかったまだ一ミリも知らない見つけたばかりの迷子の子どもの助けになる、という役割を自ら見出し、挑戦するし、

デュークに勇気づけられてチャレンジしたギャビーを見たウッディは、さらにバズの後押しに助けられ、新たな人生を踏み出すことになる。

 

必要なものは全て自分の内にある・加えて必要なのは「認識の変化」と「状況に応じた条件の調整」

ここで重要なのは、カブーンはこのジャンプを今までできないと思っていただけで、今までもできたかもしれないということ。カブーンがトラウマになっている「コマーシャルのようにジャンプができなかったせいでリジャーンに捨てられた」というのは、リジャーンが十分にカブーンが飛べるような助走をつけていなかったことや、ジャンプ台の角度や長さの設定など様々な要因の結果である。リジャーンが捨てたということは変わらないが、カブーン自体の「物理的な身体能力」が変わったわけではない。カブーンの認識が変わり、また条件を変えたことで、観覧車からの大ジャンプを決められたのだ。

これはちょうど、ボー・ピープ自身の変貌とも連動している。

 

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【1】ボー・ピープの「変貌」は認識の変化の表れ 

発表当初話題になった「ボー・ピープ」の大変貌。ドレスを脱いでパンツ姿になった新しい衣装は、「昨今のアクティヴ・ヒロインの再生産か。これだからフェミニストは。」という否定的な意見が飛び交ったのは記憶に新しい。

しかし、彼女自身の変貌は新しく何かを身につけたのではなく、自身が持っていたものへの見方を変えることで構成されている。

 

この方のツイートにもあるように、スカートの生地を裏返してマントにする、というのは、もともと彼女が自分の内側に持っていた内面的な強さを外に出したということをビジュアル化していると捉えることができる。

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また、本編をしっかり見てみれば、「Ralph Breaks the Internet(シュガー・ラッシュ:オンライン)」でドレスを脱いで部屋着姿がデフォルトになったプリンセスたちとは異なり、ボーはシーンに応じて衣装を変え続けている。スカートのシーンもあれば、マントにしているシーンもあるし、身軽に何も身につけない時もある。

私が参加できたピクサーのひみつ展での特別イベントに講演しにきたピクサーのキャラクター・テーラリング・シミュレーション(衣装についての技術的な調整をする仕事)を担当する小西園子さんによれば、トイストーリーシリーズで一作品のなかでこれほど着替えるキャラクターは今までいなかったとか。

ボー・ピープがこれまで冒険に出なかったのは、製作者側が「彼女が陶器であり割れてしまう可能性があるからできない」のだと考えていたということすらまことしやかに言われているが、その製作者側の認識すら彼女は覆してしまう。
単純な話だが「割れたらテープで止めてくっつければいい」という認識が4作目で端的に示されていた。

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トイストーリーで手が取れるのは、ジンクスだが、1回目にバズの手が取れた時ボーは、真っ青になって叫んでいる。2作目でウッディの腕が完全に取れたのはアルの部屋でだったためボーは見ていないが、1作目の叫ぶシーンと4作目でのボーの腕が取れた時の反応を比べると、その変化は顕著である。手が取れたことを本気で怖がるウッディをボーは笑い飛ばすのだから。

 

【2】ウッディの「予定調和」に対する認識の変化

ウッディに着目すると、ジェシーをアンディの元へ再アドプトするなど、4作目の最後に始める人生に近いことはもともとしていた。実際4作目の中においても、ダッキーとバニーにボニーの元へ連れて行くことを約束したり、ギャビーギャビーヘボニーの元へ行くことを提案するなど、徐々におもちゃを子どもにマッチングさせることをし始める。

しかし、ジェシーをアンディの元へ連れていった時と、ギャビーギャビーをボニーの元へ向けて連れて行こうとした時には決定的に違う点がある。

 

実際会話のシチュエーションは非常に似せて作られており、シリーズを超えて対比しようとしている意図は明らかである。

 

(1)ジェシーへの口説き

JESSIE: But what if Andy doesn’t like me?
ジェシー:もしアンディに好かれなかったらどうしよう?

WOODY: Nonsense! Andy’ll love you!
ウッディ:そんなバカな!アンディは君のこと気に入るよ!

 

(2)ギャビーへの口説き

GABBY GABBY: But what if you’re wrong?
ギャビーギャビー:でももしあなたが間違ってたら?(ボニーに気に入られなかったら?)

WOODY: Well, if you sit on a shelf the rest of your life . . . you'll never find out, will you?
それでも、これから一生棚の上に座っていたら…それを確かめることすらできないんじゃない?

 

決定的に違うのは、(1)では妄信的にアンディがジェシーのことを愛すると信じ込んでいてそれが前提でジェシーを説得しているのに対し、(2)ではボニーがギャビーのことを気にいるかどうかはわからないけど、それでも行動して見なきゃ何も変わらないということを認識した上で説得しているということ。

そして後者の考え方は4作目の冒険を通してボーからインストールされたウッディにとっては新しい考え方だ。この「棚の上に座ってたら何も変わらない」というのはボーの言葉の引用である。

 

先に確認したジェシーの説得がそうであったように、このギャビーの説得も、ギャビーに向けているようでウッディが自分自身に言い聞かせていることと捉えることができると考えると、これはウッディ自身が『予定調和』(=「Established Harmony」=「ウッディにとってのハーモニー:すなわちアンディ)がない世界において生きて行くことを決意したことの現れと捉えられる。

だからこの次の瞬間ボー・ピープが助けに帰って来てくれて、「He's right」と言うのだ。あれはウッディがアンディから卒業した、つまりウッディが「予定調和」を前提とした認識を捨てた瞬間なのだ。

 

「棚の上に座り続ける」か「窓から飛び出す」か:それぞれの「ストーリー:予定調和」からの解放

そしてこの「Sit on a shelf the rest of your life」と対比される表現が先に見た「Jumping out of the window」だと考えられる。

ギャビーギャビーは、ボーと違って通りに面したショーウィンドウではなかったが、ガラス張りの飾り棚に居場所があったことは映画の中で描写されており、この説得ののちにアンティークショップを出ていったことからも、ギャビーが「窓の外へ飛び出した」描写になっていることが確認できる。

 

ギャビーギャビーはこの時、あのずっと繰り返し読んでいた「絵本」は持っていかない。
同様にデュークカブーンも、「ランチャー」は棚の上に置いて来たままだ。そのため観覧車からのジャンプの際には台座の代わりに、ダッキーとバニーが後輪のゼンマイを回して準備している様子が描かれた。
もちろんボーピープのランプはショーウィンドウの中に置きっぱなしだ。

このように、ギャビーは絵本を、カブーンはランチャーを、ボーはランプを、それぞれ全てあのアンティークショップの中に置いてきた。

これが意味するところは、それぞれが自分に<設定されたストーリー>から解放されたということだ。だからデュークは観覧車からのジャンプを成功させられたし、ギャビーは迷子を助けに行くことができた。

ギャビーギャビーがボニーと出会う予定だった場所であるメリーゴーランドへ向かう直前、迷子の女の子の存在に気づいだシーンで背景に写っている光り輝く看板は「Take a Chance」。おそらく宝くじの屋台か何かなのだろうが、まさに文字通り自分からチャンスを掴みに行く瞬間であることを無言のうちにはっきり示してくれている。

ウッディはボイスボックスを譲ったことで、そしてバズに「ボニーは大丈夫だ」と言われたことで、そしてジェシーにバッジを譲ったことで、アンディがウッディに設定した「ずっと君のそばにいてくれる」という3作目の最後でボニーに語りかけた「ストーリー」から解放され「freedom」になったのだ。

そしてウッディは、不特定多数の子どもたちに遊ばれる:不特定多数の「ストーリー」の中で生きながら、さらに自分で自分に与えた「他のおもちゃを助ける」という役割を担いながら「個人として」生きている。

 

今までは、1作目のバズや2作目のウッディで示されたように<初期設定のストーリー>から解放されて、<ひとりの子どもの作るストーリー>の中で生きることが幸せだとされてきたが、ボーピープが出てきたことで、さらにそこから一歩進めて、特定の子どもの「ストーリー」自体からも解放され、いろんな「ストーリー」の中に身を置くことで、そして誰かから与えられる「役割」を演じるのではなく自分自身で「役割」を定義して行くことによって無限の可能性を試していけるということになった。

 

「ストーリー」から解放されねばならない理由は、どのストーリーにも「予定調和:established harmony」が想定されているからだ。
ストーリーから解放されるということは、他人から「役:role」を与えられなくなるということ、また「予定調和を迎えようとすること、迎えるだろうと想定すること」から解放されることであり、そのためには自らアクションを起こし外界へ出て行く、「窓から飛び出す:jumping out the window」するしかないのである。そうしなければ チャンスにすら気付けない。そしてその上で自分から 「チャンスを掴み:take a chance」に行かねばならない。たとえそれが上手く行く保証がなくても。

 

ダッキーが炎を吹きとバニーが目からレーザーを出せるのはなぜか?:誰でも「To Infinity and Beyond」無限の彼方へ向かえる

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ダッキーとバニーは、4作目で登場する新キャラのうち唯一アンティークトイでないおもちゃたちだ。彼らは射的の景品として3年間同じ屋台につられていたらしいが、射的の景品という安物であるため、パッケージもなければ、<初期設定のストーリー>もない。また子どもに遊ばれたことがないので、<誰かのストーリー>の中に置かれたことすらない。

だから彼らは、自分で<設定>を与え<ストーリー>を作り出せるのだ。

空想・妄想シーンがフルCGで再現される(もともとフルCGのアニメーションなので、このように書くのも変な話なのだが笑)のは、3作目の冒頭のアンディの空想する世界でのストーリーのシーンと、4作目でダッキーとバニーがアンティークショップの店主マーガレットを襲う妄想シーンと、射的屋に対する復讐を妄想するシーンだけだ。(※この点についての訂正を下に赤字で追記)
映画で示されている限りで言えば、彼らはアンディの他で唯一フルCGでの妄想ができるペアなのだ。

彼らを縛るストーリーは何もない。
だから彼らは自分の想像に従って、どんな「役:role」だって演じられる。

それは誰でも一緒で、自分自身が身を置く「ストーリー」から解放されさえすれば、自分が想像できるものには何にでもなれる、というメッセージでもある。

だからウッディはいまようやく、本当に to infinity and beyond 無限の彼方へ向かう準備が整ったのだ。

 


ちょうど2万字を超えたようです。長い記事になりましたが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。 

 

 

※ 追記(2019/08/04時点)

Twitterで @PixarWorld_net さんからご指摘をいただきました。

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こちらの方のおっしゃる通り、「Party Saurus Rex(レックスはお風呂の王様)」においてボニーはお風呂で遊んでいるときに展開する妄想ストーリーがアンディのそれと同様に再現されていました。 そして、このシーンこそが「唯一ボニーの妄想ストーリーが展開される瞬間」でした。つまりこのシーンはボニーがアンディ同様のイマジネーションでおもちゃたちと遊んでいることを表現のスタイルで記号的に象徴している唯一のシーンと捉えることもできそうです。シリーズを通しながらの分析といいつつ、大事な点を見落としていたことに気づかせていただきありがとうございました!

どちらにしろ、このような妄想は人間の子どもだけがするもので、おもちゃたちがそれを自分でしているわけではないという点は変わらないため上記の分析にさほど大きな影響はもたらしません。おもちゃの中でそれをするのはダッキーとバニーだけです。

 

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トイストーリー4 新曲 歌詞和・吹替 比較『君のため:I Can't Let You Throw Yourself Away』_

はじめに

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トイストーリー4向けにシリーズ一作目からおなじみの Randy Newman が作詞作曲し自ら歌う I Can't Let You Throw Yourself Away という新曲が作られました。日本語吹き替え版では、こちらも一昨目からおなじみのダイヤモンド✡ユカイさんが吹き替え歌詞(訳詞:中川五郎)を歌っています。

 

この曲はどうやら、自分のことをおもちゃではなくゴミであり、ゴミ箱に行くべきだと考えているフォーキーが、目を離した隙にすぐゴミ箱に入ってしまうのを、ウッディが何度も何度も止めようとするモンタージュシーンのバックグラウンドで流れるようです。(人づてに聞いた情報であり、私自身はまだ映画を確認できていません。<7/11現在>)

 

www.youtube.com

 

Let It Goなどもそうですが、英語では音節数の短いフレーズをなん度も繰り返すため、日本語に吹き替えた時にだいぶニュアンスが変わっているんじゃないかと日本語版が出る前から一人でかってにやきもきしていましたが、タイトルも思ってもみないようなタイトルでびっくりしました。

細かい感想は歌詞の後で述べますので、まずは原詞と私がつけたその和訳、そして日本語吹き替え歌詞を比較するために3つ並べてみます。

 

『I Can't Let You Throw Yourself Away:君のため』原詞・和訳(ブログ筆者による)・日本語吹替え歌詞(赤字)

 

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
全部 そうさ君のためさ

 

I can't let you
そうはさせない
どこだって

I can't let you
そうはさせない
いつだって

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
君のこと ほっとけないのさ

 

Don't you want to see the sun come up each morning?
毎朝日が昇るのを見たくないのかい?
顔あげて見てごらんよ

Don't you want to see the sun go down each day?
毎日日が沈むのを見たくないのかい?
この世界の美しさ

Don't you wanna see that little girl who loves you so?
君をとっても愛する女の子の顔を見たくないのかい?
よろこび かなしみも分けあえる

Her heart would break if you should go
もし君がいなくなろうものならあの子は悲しみにくれるよ
人がいる / わかるだろう?

 

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
全部 そうさ君のためさ

 

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
全部 そうさ君のためさ

 

Son, it seems to me like you're never gonna behave yourself
坊や、君はいつまでたってもおとなしくならなそうだな
いいかい? 君はごみ屑なんかじゃない

And since I'm not gonna do this every day
それに俺も毎日こうやっていられるわけじゃないから
話せばわかるはずだ

Come tomorrow you're gonna have to save yourself
明日になったら君は自分でやっていけるようになるしかないん
このままじゃ 俺だってもう 

Got nothing more to say, you're not listening anyway
もうこれ以上言葉もないし、どうせ聞いていないようだけど
お手上げなのさ / それでも今は

 

I can't let you
そうはさせない
これだけは

I can't let you
そうはさせない
これだけは 

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
これだけは ゆずれないのさ

 

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
全部 そうさ君のためさ

 

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
全部 そうさ君のためさ

 

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you
そうはさせない
君のため

I can't let you throw yourself away
君が自分からゴミになろうったって そうはさせない
全部 そうさ君のためさ

 

 

 

雑感

ボニーが自分で工作としてつくったフォーキーをお気に入りのおもちゃとしているのに、ゴミ箱に入ってしまう「困ったおもちゃ」であるという認識がウッディの中にあり、ウッディはフォーキーも「おもちゃらしく」「behave yourself:行儀良く:おとなしく」すべきだと考えていることがよくわかる歌詞です。

落ち着きのない子どもをなんども椅子に座らせる親の姿のよう。。。(果たしてそのように強制するのが「良い」のかどうかはおいておいても)

「君のため」が繰り返されるのでだいぶ原詞とは印象が変わっていますが、ウッディがウッディの価値観に基づいて、フォーキーに強制しようとしているという構図であることには間違い無いので、ウッディの押し付けがましさが強調されるという点で流石プロの訳詞だなと感じます。

 

ただ一方で、

Don't you wanna see that little girl who loves you so?
君をとっても愛する女の子の顔を見たくないのかい?
よろこび かなしみも分けあえる

Her heart would break if you should go
もし君がいなくなろうものならあの子は悲しみにくれるよ
人がいる / わかるだろう?

の部分など、ウッディがボニーのためにやっているのだ、という点はあまり吹き替え歌詞では強調されていないように思えて、わかりきったことではあるのですが、ウッディの自己満感が高まってしまっているように思えます。

この辺り実際映画で通して見た時にどう見えるのか、公開初日に字幕吹き替え両方見終わったら更新しようと思います。

 

 

 

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実写アラジン「Speechless 心の声」考察:「ギリシア神話 イカロス」と「女性の商品化」の観点から

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はじめに

日本公開から約一ヶ月が立つ実写版アラジン。アニメーションから30年近くたってのアップデートということで社会状況がかなり変化していることを踏まえて様々な面での更新が図られていることは一般に述べられている通りです。

その一つとして、このブログでは、「Arabia:アラビア」をオリエンタリズムの文脈で他者化し続けてきたことについて、いかにディズニーが少しずつ反省し、その表現を改善してきたかを、アニメオリジナル1992年版、批判を受けて改訂した1993年版、2014年のブロードウェイ版、2019年の実写版の4つを変遷追いながらまとめた記事を書きました。 

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今回は Speechless の歌詞とそれに対応する映画の他の部分のセリフや歌詞などを対応させながら、ノベライズ版や公式が出しているミュージックビデオなども参考にしつつ、Speechlessを通してジャスミンが言いたかったこと、つまりはDisneyがジャスミンに言わせたかった、ジャスミンの口を通してオーディエンス(私たち)に伝えたかったことを

1)ギリシア神話イカロスの翼』の引用

2)「Better Seen and Not Heaerd」というジャファーのセリフの引用

という、2つの観点から探っていこうと思います。

 

 

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前提1:なぜ今Speechlessだったのか

ジャスミンディズニープリンセスの第二波のアリエル、ベルに続く80年代フェミニズムの文脈に乗っかったエンパワメントプリンセスの3人目として1992年に登場し、「I'm not a prize to be won(私はゲームの賞品なんかじゃないの)」というセリフとともに記憶されている3人の中では最も過激な発言をしたプリンセスとして認識しています。

しかし彼女はプリンセスとして登場しながら、主役ではなくあくまで主役はアラジンであり、アラジンの恋愛対象として描かれていたこともあってか、他のプリンセスのように前半に登場して自分の夢について歌う「I Wish Song」は作ってもらえず、言わずと知れた A Whole New World でアラジンに対して合いの手を入れるくらいしかさせてもらえていませんでした。このことについては、こちらの記事で These Palace Walls の歌詞の和訳とともに紹介しましたので、興味のある方は是非ご一読ください。

 

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そういういみでようやく「自分らしい」自分の歌を程入れることのできたジャスミンは「Speechless」をもってはじめて Speechless(主張なし)ではなくなったということが言えるかもしれません。なにせ、自分らしい I Wish Song を持つことは、「プリンセスであるならば当然」であることが、ヴァネロペとOhMyDisneyのプリンセスたちとの会話を通して公式で認められているわけなのですから。

 

【プリンセスであるための必要条件】:一般的に人々から「大きくて強い男性」から助けてもらったことで全ての悩みが解決したと思われている、と感じていること
【プリンセスならば持っている特徴(十分条件)】:自分が本当に心から望んでいることについて歌を歌うと、スポットライトが当たったり背景に音楽が流れてきてミュージカル的になる

詳しくはこの年末に書いたこの記事にまとめてあります。

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前提2:そもそも Speech と Voice ってどう違うの?

ロングマン英英辞典から、それぞれのワードで今回の文脈で当てはまるだろう意味の説明を取り出すと以下のようになります。

Speech:a talk, especially a formal one about a particular subject, given to a group of people (語り、特に何らかの特定の主題についてのフォーマルなもので、なんらかの人々の集団に向けてなされるもの)

Voice: the right or ability to express an opinion, to vote, or to influence decisions(意見を表明する、あるいは投票する、または結果に影響を及ぼすための権利あるいは能力)

「心の声」という吹替のタイトルは、心の中には「声」があるけどそれを表に出せない、口にできないという意味合いで歌われています。

この声は「Voice」のことです。実際この映画においてもジャスミンは日頃から、父国王やジャファーに対して意見はしています。

しかし、Speechというのは聞いてくれる相手がいる前提となっているため、Voiceをいくら発しても相手にしてもらえなければ「無力な声」になってしまいます。その「(聞き入れてもらえる)声なき状態」を「Speechless」と表していると言えましょう。

もう少しフォーマルに言えば「政治的発言権」はあっても「その声に力が(十分に)ない」状態と言えるでしょう。

「いやジャスミンアニメの頃から言いたいこと言ってるやん、どこがスピーチレスねん」って思っていた方も、SpeechとVoiceのニュアンスの違いを何と無く掴んでいいただけるのではないかと思います。

 

1)Speechless におけるギリシア神話イカロスの翼」の引用

① ChirO_oy5656 さんのツイート

Speechlessについてのツイートを色々と検索かけながら見ていたところ、 @ChirO_oy5656 さんのこのようなつぶやきを発見しました。

このアカウントの一連のツイートを参照しながら、引用されていた「イカロスの翼」神話と照らし合わせると確かにこの歌詞で使われている比喩が、イカロスを意識していることがだいぶはっきりとしてきました。

 

イカロスの翼という神話の必要箇所を簡単にまとめます。

ダイダロスと息子のイカロスが閉じ込められたときに、ダイダロスが小さい鳥の羽を蝋で固めて大きな翼を作り、息子イカロスにも翼をつけさせて飛び方を教え、脱出しようとします。

その際、ダイダロスイカロスに「必ず中空を飛ぶ」ように指示します。「低すぎると海の水しぶきで羽が重くなる。高く飛ぶと、太陽の熱で蝋が溶けてしまう。まぁ、私についてくれば安心だ」というそうです。

その後実際に飛び始めると、最初こそついていくのが精一杯だったイカロスも、次第に飛んでいることが楽しくなり、いつの間にか父を見失って空高く飛んでしまい、結果蝋が溶けて羽がバラバラになり、海に真っ逆さまに落ちてしまったということ。

 

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イカロスの墜落 シャガール

 

② 歌詞の中の神話引用の該当箇所

この神話を引用しているであろう、歌詞の中の該当箇所を並べます。

Part 1

Here comes a wave
Meant to wash me away
ほら 私を洗い流そうとする波がやってきた
A tide that is taking me under
私を引きずり降ろそうとする大波が

これが、低すぎるとかかってしまい翼が重たくなってしまう、波しぶきのメタファーと重なります。

Part 2

Try to lock me in this cage
この牢屋に閉じ込めてみなさい
I won't just lay me down and die
横になって死んでいったりしないから
I will take these broken wings
この壊れた翼を持ち出して
And watch me burn across the sky
空を駆け抜け燃える私をみなさい

 

パート2においても、Lock me in this cage というのは完全に捕らえられたイカロスとダイダロスを想起させる言い方です。
また、イカロスの引用ということを念頭において歌詞を読んでいくと、「空を駆け抜け燃える私をみなさい」というのは、空高く飛ぶことで蝋が溶けて燃え出すことを想定した上で、それをわかっていても高く飛んでやるというジャスミンの強い意志が感じられる歌詞として認識できます。

 

③ 翼=教育、牢=古い価値観、脱出は親子で

@ChirO_oy5656 さんは、翼と牢獄の比喩を、翼はジャスミンの受けてきた教育、牢を「受け継がれた古い価値観」と捉えておられます。

翼を蝋でくっつけるという行為をジャスミンがしてきた学びとそれを授けてきた父王の地道な努力として暗喩することは確かにこの文脈に非常に即していると私も考えます。

なぜなら、この実写版アラジンは密かに教育についても言及しているからです。

 

アニメ版では「One Jump Ahead: ひと足お先に」の序盤でアラジンが迷い込むのはハーレムで、そこにいる女の子たちが歌うシーンがありましたが、実写版ではそこは黒板に向かって本を開いて勉強している少女たちに差し替えられています。その子たちを指導しているのは女性教師です。

これは明らかに「女子教育の必要性」を世界に訴えたマララさんの影響があると見てよいでしょう。

実写版美女と野獣でもエマワトソン演じるベルが、自らの発明で洗濯を自動化(馬力の利用だったが)することによってあいた時間で街の少女に文字を教えるシーンが加えられていましたが、あの世界(フランス)では学校に行く子どもたちは全員男の子で、校長先生はおじさん、そのおじさんが少女への教育を勝手に行おうとするベルに嫌がらせをする演出になっていました。

それに対して今回は「想像されたアラビア」の世界観で、全く逆のもとから女子教育が普通になされている様子というのを描くというのは非常に意図的であると捉えられるわけです。

 

2)Speechless における「女性の商品化:"Better Seen Not Heard"」に対するアンチテーゼ

① ChirO_oy5656 さんのツイート:「低すぎず高すぎず」

もうひとつ @ChirO_oy5656 さんが指摘していたポイントは、ダイダロスイカロスに教えた「高すぎず、低すぎず、中空を飛べ。私についてこい」という指示の解釈について。

@ChirO_oy5656 さんは、「Stay in your place, Better seen and not heard」を「見目麗しく愛想よく(=低すぎず)、但し高飛車な意見は言うなというジャスミンが受ける抑圧」として解釈されていました。

 

ジャスミンの心にエコーする父王とジャファーの「声」

ここがジャスミンの受けてきた抑圧であることは公式が出している歌詞付きのミュージックビデオにおいてもこの部分の映像が、「アンダース王子との謁見シーン」「宮殿」「国王」となっていることからも明らかです。

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スクリーンショット Speechless Oficial Lyric Video

Stay in your placeというのは、王妃が殺されてから自分の娘まで危険にあうことを恐れて部屋から出るな、宮殿から出るなという父王の「声」のエコーであることは間違いないと思いますが、「Better seen and not heard」というのは劇中のセリフだけを頼りにするのであれば、あきらかにジャファーの「声」のエコーです。

これは、ジャスミンが兵士たちに連行されながらPart 2を歌い始める直前に彼女の脳裏をよぎる言葉としてエコーをかけられた状態のジャファーのセリフが繰り返されることからも明らかです。

そのジャファーのセリフとは Part 1 が歌われ始める直前のこれのことです。

「人生ラクになりますよプリンセス。伝統を受け入れれば。あなたは見てもらっていればいいのです、聞いてもらえなくても。」

"All you have to do is to be SEEN not HEARED"

というものです。(まだ手元に円盤や台本はないので一言一句正確である保証はありません)

ここは、字幕版だとだいぶ意訳されてしまっています。

字幕担当の翻訳家:中沢志乃さんの訳「女性に必要なのは美しさ、意見は不要。」

 

これをうけての歌詞の部分がこちら。(和訳は私による独自のもの)

Stay in your place
Better seen and not heard
宮殿にとどまり
容姿は見られるようにして 意見は言わないようにしていた方がいいとされてきた

But now that story is ending
でもそんなお話はお終い

この部分の中沢さんによる字幕翻訳は、現在日本の公式アカウントがYouTubeにアップしている動画で確認できますが、このようになっています。

「女の意見は不要 そんな時代も終わる」

 

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スクリーンショット ディズニー・スタジオ公式アカウントの「スピーチレス〜心の声」(字幕)

もちろん字幕で表示できる文字数には限界があるため全ての要素を反映することはできませんが、Better seen and not heared というワードは原語の台本だともう少し繊細に扱われています。

 

③ プリンス・アンダースとはなんだったのか

ジャスミンに謁見しにくるプリンスアンダースはバックグラウンドこそ丁寧に描かれないものの、ほぼ唯一の「White」の名前とセリフのあるキャラクターです。 

実はこのプリンスアンダース、キャストが発表された2年前から話題になっていました。なぜ、この世界観と流れで「White」のプリンスが出てくるんだ?と。

www.hollywoodreporter.com

 

で、結果はみなさん映画を見ての通りです。

唯一の「White」の訳者によって演じられたプリンスアンダースは、ジャスミンを「まなざす対象」とし、「見ることで楽しむ」、まさに「女性を商品化する男性」の代表として描かれました。

アニメ版でこそジャスミンを色目で見て、赤ジャスミンなるものを魔法で作り出し求婚を迫るなど、この上なくジャスミンを性的対象化するジャファーですが、今回の実写版においては、ジャファー本人が女性を商品化することはありませんでした。

またプリンスアンダースは、ノベライズ版を読む限りでは最終的な映画になって行くにあたってだいぶ登場シーンや、そのキャラクターとしての役割、要素が削られたであろうことが読み取れます。

ラジャーに噛まれた後、プリンスアンダースは自国からの献上品として「大砲」を披露し、実際に港に浮かべてある船を撃ってみせるというデモンストレーションまでする予定だったようです(ノベライズ参照)。これはつまり、ジャファーが映画で説明する軍事同盟を結びにきたという意味合いを強めるためのシーンであり、またジャスミンが国民の安全を考えて戦争推進政策を進めようとするジャファーに対する反抗をよりはっきりと描こうとするために必要と考えられていたシーンだったのでしょう。

しかしこのシーンが、時間の都合などがあった可能性もあるとはいえ、最終的に全く登場しなかったということが何を意味するか。それは、プリンスアンダースについて「軍事同盟を結びにきた人」というより「ジャスミンを商品化する人」という要素を強調すためではないかと考えられるわけです。

しかもそれを唯一の「White」の役者が演じるキャラクターに「押し付け」る。

アラビアンナイト の歌詞変遷の文脈でも書きましたが、「non-White」の「エキゾチック」な女性を「White」の男性が性的にまなざすという側面における「オリエンタリズム」について、ディズニーが自覚的になっていることの表れであるとも言えます。

 

ジャファーは本人こそ女性の商品化を直接する描写はありませんが、ジャスミンが商品的価値が高いことを政治利用しようとしていることは間違いありません。それこそが、「Better Seen not Heared」という言葉でしょう。
しかしそこにジャスミン(女性)の「発言力」はありません(Speechless 状態)。

 

④ ダイヤの原石は「女性を商品化する気配」を感じさせてはいけないのが2019年:アラジンの描かれ方のアップデート

実はジャスミンの心の中でこだまするジャファーの声「Better Seen and Not Heared」は、非常に重要なワードとして扱われていることは、他のミュージカルナンバーの歌詞の変更にも影響していることからも伺えます。 

 

まず、アリ王子の凱旋パレード「Prince Ali」。

[1992]

Heard your princess was a sight lovely to see
伺ってきました おたくの姫君は見応えのある美しいご光景だと

 

[2019]

Heard your princess was hot! Where is she?
伺ってきました おたくの姫君はセクシーだと!どちらにいらっしゃるかな?

 

まあこれについてもいろいろ議論はあると思いますが、92年の時には、ジャスミンのことを「a sight lopvely to see」と、「光景」=「まなざす対象」と捉えていることが明らかな歌詞になっていました。

Hot(セクシー)というワードチョイスをどう捉えるかは、微妙なところですが、あまり意味が変わらなかったとするなら、わざわざ変えなくても良かったわけです。

でもそれをわざわざseeに近い音としてsheを持ってこれるような歌詞変更をしたということは、それだけこのタイミングで「see」を使いたくなかったということの表れと言えます。つまりアラジンが、ジャスミンを「see」 する対象 としている他の王子(プリンスアンダースのような)とは違うんだということを強調するために必要だった改変と考えて良さそうです。

 

もう一つ、アラジンが女性を商品化しなくなったことを表すために変更のあった曲はジーニーといえばの「Friend Like Me」。

これは歌詞変更ではありますが、歌詞だけを見てもあまり伝わりませんので、画像で。
92年のアニメーション版では、ジーニーが自分の魔法でこんなこともあんなこともできるというデモンストレーションをする過程で、セクシーな女の子たち(ヴァーチャル)を作り出して、アラジンに見せてあげるシーンがあります。

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[1992]

Can your friends go poof?
Hey, look here
君の友達はこれできる?ハッ!
ほれ、見てごらん?
Can your friends go "Abracadabra," let'er rip
And then make the sucker disappear!
君の友達はアブラカダブラ唱えて おもいっきりやっちゃえ
それからそいつら消すことも!

 

[2019]

Can your friends go- (start voice percassion)
君の友達はこれできる?(ボイパ)
(rapping) I'm the genie of the lamp
I can sing, rap, dance, if you give me a chance, oh!
(ラップしながら)俺はランプの魔人
歌えて、ラップも
できて、踊れちゃう、チャンスさえくれれば、そう!

 

しかしそこは実写版においてはウィル・スミスが得意なボイパとラップを披露するシーンに完全に差し替えられていました。あれだけアニメーションに忠実に実写化しているシーンなわけでこの改変は明らかにアラジンが、そのような女性の商品化では喜ばないことを示すためであると捉えられるでしょう。

 

このように「Better Seen and Not Heard」こそがジャスミンを抑圧してきた価値観(直接的にはジャスミンの心の中でこだまする「ジャファーの声」)として強調されるような作りになっているわけです。

 

次の記事では、これを踏まえて実写版アラジンがどのようにプリンセス(理想的な女性像)とプリンス(男性像)をアップデートしようと試みたのかについてまとめたいと思います。

 

 

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***

 

 

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Broadway Aladdin 「These Palace Walls」歌詞和訳 から 実写アラジン「Speechless」の意義が見えてくる

はじめに

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アラジンは1992年にアニメーション映画として公開された後、20年近くの時を経て、2011年ごろからMusicalとしてのプロダクションが開始し、結果として2014年にブロードウェイのニューアムステルダムシアターで上演が始まり、大ヒット。現在も同じ劇場でロングラン公演しています。

日本はブロードウェイ公演開始の翌年に世界初英語以外の言語での上演を、美女と野獣以来ディズニーミュージカルをほぼ一手に引き受ける劇団四季が上演開始し、現在もチケットがなかなか手に入らないという大人気のロングランを続けています。

美女と野獣もそうでしたが、アニメーション、ミュージカルを経て実写映画化される流れがこのアラジンにも適応され、2019年にガイ・リッチー監督作品として公開されています。

美女と野獣では、91年アニメーション版の公開時にカットされていたナンバー "Human Again" はブロードウェイ版で追加され、その後アニメ版が改めてディスクリリースされる際に再度追加されたり、"Home"(四季名:「我が家」)は、2017年の実写版でルミエールがベルを部屋に案内するシーンの背景に流れるインストルメンタルとして密かに採用されていました。

このように別の媒体で作品化するときに、元々あったが使っていなかったアイデアを使ったり、一度使ったアイデアを別の形で再度使ったりすることは頻繁に行われており、これはディズニーの制作チームでアラン・メンケンのような作曲家やティム・ライスのような作詞家が、形の違う媒体でのリリースでも共通して関わっていることが関係していると思われます。

 

もともと自分の I Wish Song がなかったジャスミン

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ディズニープリンセスには基本的に、自分の夢を歌う「I Wish Song」というものが用意されています。例えば、アリエルなら「Part of Your World」、ベルなら「Belle (Reprise)」、ティアナなら「Almost There」、ラプンルェルなら「When Will My Life Begin」など。

ジャスミンはタイトルロールがアラジンであり、あくまでジャスミンはストーリー上アラジンの恋愛対象として出てくるキャラクターであることも関係しているのか、「A Whole New World」の合いの手しか入れさせてもらっていませんでした。もちろんこの楽曲はディズニーソングを代表するような有名曲であり、ジャスミンの歌といえばこれではあったのですが、これはあくまでアラジンが主体となって歌っています。しかもアラジンがジャスミンを騙しながら。

そこで2011年から製作の始まったミュージカルではジャスミンに歌が与えられそれが今回の記事で取り扱う「These Palace Walls」でした。

 

こちらの動画は、ブロードウェイで長期間ジャスミンを演じたアリエル・ジェイコブスさんが「ブロードウェイ・プリンセス・パーティ」で披露したパフォーマンスの映像です。

ジェイコブスさんは2024年3月20日の日本来日公演の「ディズニー・プリンセス・ザ・コンサート」でもこの曲を披露します。(追記2024年2月27日)


www.youtube.com

These Palace Walls 歌詞と対訳、劇団四季歌詞

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歌詞はミュージカル版から作詞に参加したChad Beguelinが新しく書きました。

私がつけた対訳は黒字で、劇団四季用に「ありのままで」で有名な高橋知伽江さんがつけた訳詞を <青字> で表記します。

私がつける対訳は、歌えるように音節数を揃えるのではなく、できるだけ英語のニュアンスを反映していこうと思います。

 

[JASMINE:ジャスミン]

“A princess must say this”
「プリンセスたるものこれを言わねばならない」
<王女たるものこう言う話し方をすべきだ>
<こういう格好をすべきだ そして>

"A princess must marry a total stranger", it's absurd!
「プリンセスは全く知らない人に結婚せねばならない」そんなのばかげてる!
<会ったこともないどこかの王子と結婚すべきだって そんなのおかしいわ>

 

Suitors talk of love but it's an act
Merely meant to throw me
求婚者は愛してるって言うけど、そんなの所詮演技
ただ私をその気にさせようとしてるだけ
(throw me off で「気を散らさせる」)
<あの人達のプロポーズ どうせ嘘よ>

 

How could someone love me when in fact
They don't know me
どうしたって私を愛してくれる訳ないじゃない
私のことなんてわかってもないのに
<私のこと何も 知らずに>

 

They want my royal treasure
When all is said and done
欲しがっているのは私の王室の宝
結局のところは
<狙いは財産 私じゃない>

 

It's time for a desperate measure
もう一か八かの策をとる時ね
<全ては計算>

So I wonder
だから私知りたいの
<愛じゃない>

 

Why shouldn't I fly so far from here?
どうして私はここから遠くへ飛び出しちゃいけないの?
<ここを飛び出したい>

I know the girl I might become here
ここにいてなるべき女の子の姿っていうのはわかるもの
<自由になりたいのに>

Sad and confined and always locked behind these palace walls
悲しみ封じ込められいつもこの王宮の壁に閉じ込められてるそんな姿
<閉じ込められてる 壁の中に>

 

[ATTENDANT #1:侍女1] (speaking):

I don't know princess, for someone like you
the outside world might be kind of overwhelming
プリンセス、私にはわからないけど、貴方のような方にとっては
外の世界は少し強烈すぎるかもしれません
<でも王女様には外の世界は少し刺激が強すぎやしないかと>

 

[JASMINE:ジャスミン] (speaking):

Is that a promise?
本当にそうなの?
<本当?>

 

[ATTENDANT #2:侍女2] (spoken):

I think it would do her some good
私は、彼女のためになると思います
<私はいいことだと思いますけど。>

 

[JASMINE:ジャスミン] (spoken):

You do?
そう思う?
<でしょ?>

 

[ATTENDANT #2:侍女2] (spoken):

Honey I've never seen someone who needed to get out more
愛しい姫様、もっと外へ出る必要のあるお方は
貴方の他に見たことがありませんもの。
<ええ。外の世界をご覧になるべきです。>

 

[ATTENDANTS:侍女たち]

Told to show devotion everyday
毎日忠誠心見せろと言われ
<しきたりに縛られ>

And not second guess it
後からとやかく言うなと言われ
<閉じ込められ>

 

[JASMINE:ジャスミン]

If a new emotion comes my way
新たな情動が湧いて着ても
<心の声さえも>
(2019年実写版新曲Speechlessの日本語タイトルここにありましたね笑)

[ATTENDANTS:侍女たち]

You suppress it
押し殺してる
<抑えてる>

 

[JASMINE:ジャスミン]

What would be your suggestion?
どうしたらいいと思う?
<どうすべきかしら?>

 

[ATTENDANTS:侍女たち]

Stand on your own two feet
その両足でしっかり立って
<胸に手を当て>

And ask why a certain question keeps repeating
問うべき「どうして?」を繰り返し続けるの
<何が望みかを 問いかけて>

 

[JASMINE:ジャスミン]

Why shouldn't I fly so far from here?
どうして私はここから遠くへ飛び出しちゃいけないの?
<ここを飛び出したい>

 

I know the girl I might become here
ここにいてなるべき女の子の姿っていうのはわかるもの
<本当の自分らしく>

 

Follow your heart or you might end up cold and callous
心に従うか、そうでなきゃ冷たく無感覚になって終わるだけ
<心のままに生きてみたい>

 

[ALL:一同]

Love comes to those who go and find it
愛は見つけにいく人のところへ訪れるもの
<愛は見つけにいくもの>

If you've a dream then stand behind it
もし夢があるなら応援しましょう
<夢は追いかけるもの>

 

[JASMINE:ジャスミン]

Maybe there's more beyond these palace walls
きっともっとたくさんのことがこの宮殿の壁の向こうにあるはず
<行きたい 壁を超えて>

What if I dared
もし思い切ってやって見たらどうなるかな
<私に>

What if I tried
もしチャレンジして見たらどうなるかな
<できるの?>

Am I prepared for what's outside
外にでる準備できているかな
<覚悟は いいのね?>

 

Why shouldn't I fly so far from here?
どうして私はここから遠くへ飛び出しちゃいけないの?
<ここを飛び出したい>

 

Something awaits beyond these palace walls
何かがこの宮殿の壁の向こうに待ち受けている
<自由に壁の向こうへ>

 

[ALL:一同]

Something waits beyond these palace walls
何かがこの宮殿の壁の向こうに待っている
<何かが待っているわ>

 

 

なぜ「These Palace Walls」がミュージカルで追加されたか?:プリンセス史的に捉える追加の意義

2019年時点ではもはや「新しく」なくなった「外の世界へ憧れる」価値観(=「These Palace Walls」)ですが、裏返せば2011〜2014年のミュージカル版製作中の時点ではわざわざこの曲をジャスミンのI Wish Songとして入れることが「新しい」「センセーショナル」だと判断されていたことが明らかになるわけです。 

2011年ということは、2009年のティアナの「Princess and the Frog」、2010年にラプンツェルの「Tangled」が公開された後であり、自分から外へ出て夢を見つけにいくプリンセス像がほぼ完成し、それをさらにロマンス不要路線へ転換させるゲームチェンジャー・メリダの「Brave」(2012)がピクサーからリリースされる前年に当たります。

 

(プリンセス史や「ゲームチェンジャー・メリダ」については以下の記事参照のこと)

ikyosuke.hatenablog.com

 

この時期であるので当然与えられる曲は「外の世界への憧れ」を歌う曲になっているわけです。

 

なぜ「These Palace Walls」は2019年実写版で採用されなかったのか?

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この疑問に端的に答えるならば、映画を見た人であれば自明だと思いますが、そもそも映画の冒頭シーンからすでに「Palace Walls」の外に出ているから、です。

最初から出ているということは、その前にすでにジャスミンはThese Palace Wallsのようなやり取りを侍女のダリアさんとしていたかもしれません。でもそれは映画としては入れない判断をリッチー監督がしたから私たちが見ることはありませんでした。

ではなぜ最初から外に出ているか?

3つ理由が考えられます。


1つ目

外に出ることを望み、外に出るかどうか葛藤し決断する姿というのは2019年においてはもうもはや「新しくない」「センセーショナルでない」からでしょう。1989年に「陸の世界」に憧れる人魚があの曲を歌ってから、もう今年で30年になるわけで、いまさらやっても仕方ないと判断したのだと思われます。

逆にいえば、外に出た上で何をするのか、何のために外に出るのか、そこが重要なわけです。

2つ目

ブコメ的な展開を限られた時間でよりスピーディに進めるためにアラジンとの出会いを早くする必要があったから。
これは十分にありえるでしょう。

3つ目

外せないアラジンの自己紹介ソング「One Jump Ahead」の逃走シーンで一緒にアクションをやらせたかったから。
これはプリンセスにアクションシーンをやらせるというエンパワメント的な意味合いもあれば、アラジンとジャスミンの間の信頼関係の構築を描くためのシーンにするためという意味合いもあると思われます。
ちょうど、Frozenでアナとクリストフがオオカミから逃げるシーンと同じように。

 

 

これらのような実務的な理由やイデオロギー的な複数の理由からガイ・リッチー監督は最初からジャスミンが外に出ている設定にするという判断をしたのではないかと推察できます。

 

裏返しに問う「Speechless」の意義

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さて、ミュージカル版で追加された曲はもはや「センセーショナル」でなくなってしまったわけですが、2019年のガイ・リッチーの描く実写ジャスミンにはまた新しい「I Wish Song」が与えられました。それが「Speechless」でした。

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

Speechlessについてはディズニーのレジェンド作曲家のAlan Menkenへのインタビューで彼が次のように語っています。

今回の僕の主な命題はジャスミンのための新たな曲を作ることでした。

「もうスピーチレスではない。口はつぐまない」という彼女の声が、現代的な意味を持って観客に届くようにしなければなりませんでしたが、想像以上にいいものができたと思い、今はホッとしています。

(中略)

この曲は女性のためのエンパワーメント(力、元気、励まし)を象徴する曲にしたいと初めから思っていました。もちろん曲作りはいろいろなことを考えながらしますが、映画の中の曲は、ストーリーにはまらなければならないし、物語をサポートするようなものでなくてはなりません。「スピーチレス」は、まず一つの楽曲として書き下ろしました。
初めは映画の最後で使うつもりでしたが、それでは遅すぎる。また冒頭で使うのも早すぎいると思いました。なので、劇中では前半と後半で半分に分けて使っています。そうすると映画のスコア(総譜)全体を支えてくれることに気づきました。

 

(取材・文・写真/田中雄二

引用元:「ウレぴあ総研:エンタメOVO」ー【インタビュー】『アラジン』作曲アラン・メンケン「今回の僕のベイビーは『スピーチレス』です」(2019.5.30.10:00配信)

ure.pia.co.jp

 

メンケン氏の「映画の冒頭で使うには早すぎる」と言う言及からも、映画前半にジャスミンの心の内を歌うための、いわゆる「I Wish Song」を用意することを模索していたことが読み取れます。

また、「エンパワーメントを象徴する曲にしたい」という思いありきで作曲しているということがはっきり言及されたのがこのインタビュー記事のすごく重要なところであると思います。

ブロードウェイ版では結局ジャスミンは「These Palace Walls」で決心して外に出て、街でストリートパフォーマンスをしているアラジンとその仲間たちに出会い、そこでアラジンに一目惚れされ、そのあと「A Million Miles Away」という囚われの身から自由になった姿を妄想しながら歌う曲で意気投合します。

しかし結局政治的にも物語の進行的にもジャスミンにはあまり決定権はなく、最後の場面においても父である王がジャスミンが望むアラジンとの結婚をできるように法律を変えることで、ジャスミンの夢のひとつを叶えてくれている。

2019年実写版では、ジャスミンはアグラバーの民の幸せのために自分こそが王になるべきだと考えていて、そのため民のことを知りもしないよその王子に政治を任せられるはずないという考えから王子との結婚に後ろ向きな態度をとっている。
しかし、王である父親は彼女自身が王位継承者となって政権を握ることについて、「千年の歴史の中で女性が王になったことはないから」という理由で諦めさせようとしてくる。最終的には王が、ジャスミンの演説や勇敢な行動をみて彼女の王としての未来の姿を垣間見た結果、彼女を次なる王にする。そして王となったジャスミンが、門の外にいるアラジンを迎えに行くかたちで結婚に至る。自らの行動で夢のひとつを叶えるのである。

(まあ仮にアラジンとの結婚がジャスミンにとっての夢のひとつであるならば、の話だが笑 なんなら2019年版は、正直言ってアラジンと結婚しなくてもオッケーな筋書きになっていたと思います。笑)

 

Speechlessを唯一の新曲として、しかもかなり他のナンバーとはテイストの違う曲として作曲し、アレンジしたことで、「声なき状況」を歌詞の中で何度もなんども否定することを強調するというエンパワメントを実現しているのです。

もう「外に出たら何かが待ってる」というのは「新しく」ないどころか、「何かが待っている」わけないんですよね。自分で何かをしなければいけない。自分で声をあげることでしか世界は変えられない。

そう言った方向になって言っていることはディズニー・プリンセス史的に見れば明らかで、Moanaにおけるモアナの「呼ばれるから行く」から「自分が自分のやりたいこととして定義し、自分自身を定義する」という「How Far I'll Go」が「I am Moana」で完成される構造で既に示されているわけです。

 

 

以下に私の書いた記事から引用しておきます。またこの部分はdpost.jp さんの記事からの引用も紹介しているのでそちらの記事も案内しておきます。

③モアナの先をゆく最新のディズニープリンセス:ヴァネロペ・ヴォン・シュウィーツの誕生

『Moana:モアナと伝説の海』では、ありたい姿を決めるのは自分であり、与えられた使命を果たすのではないというメッセージが「海に選ばれた少女」から「自ら向かう少女」への転換という形で描かれましたが、そのアップデート版がヴァネロペを通して描かれます。

「シュガーラッシュを救うハンドルを手に入れる少女」から「自分の新しいホームを見つけに行く少女」への転換として。

 

これ、現時点で最新のプリンセス像であるモアナをさらに書き換えようとしているのです。

モアナが新しかった理由は dpostさんが2016年の記事でも書かれているように、「向かう方向は『呼ばれた場所』と同じであったとしても、自らの内なる言葉で表現できないうちは "足りない”」(dpost, 2016)からこそ「I am Moana」と自らを定義することによって、「与えられるのではなく、自らが望み、自らを定義し、知る」プリンセス像を描いた点にあります。

引用元:「westergaard 作品分析」ー Ralph Breaks the Internet (シュガー・ラッシュ・オンライン)考察 [ネタバレあり]  2018.11.23更新

Ralph Breaks the Internet (シュガー・ラッシュ・オンライン)考察 [ネタバレあり] - westergaard 作品分析 

 

dpost.jp

 

「『与えられるのではなく、自らが望み、自らを定義し、知る』プリンセス像」が最新の像だとする文脈で捉えれば、「Speechless」が2019年的な「<主体的で能動的な> I Wish Song」として加えられたことの意義がより一層はっきりと見えてくるようなのです。

 

「These Palace Walls」が2019年版に採用されなかった理由を考えることで、裏返しに「Speechless」の意義が見えてくる、というお話でした。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

トイストーリー4 新曲 歌詞和訳「The Ballad of the Lonesome Cowboy:孤独なカウボーイのバラード」

The Ballad of the Lonesome Cowboy

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Written by Randy Newman

Performed by Chris Stapleton

 

youtu.be

どうやら、エンドロールで流れる曲のようです。
ウッディのことを歌っているのは間違いありませんが、果たしてこの歌詞が意味するところは。。。

「君」が指すのはいったい誰? バズ? ボー? フォーキー? それとも?

 

 原詞と和訳(ブログ筆者による)

I was a lonesome cowboy
オレは孤独なカウボーイだった

Lonesome as I could be
この上なく孤独だった

You came along,
君がやってきて

Changed my life
人生を変えた

And fixed what was broken in me
オレの中で壊れてたものを直してくれた

 

  

I was a lonesome cowboy
 オレは孤独なカウボーイだった

I didn't even have a friend
一人の友達もいなかった

Now I got friends
今や友達もできて

Coming’ out of my ears
たくさんいすぎるくらいだ

I’ll never be lonesome again
二度と孤独になることはないだろう

You can’t be happy
幸せにはなれないよ

When you’re all by yourself
たったひとりでいるときは

Go on, tell me I’m wrong
言ってみろよ、オレが間違ってるって

 

(Chorus: You’re wrong!)
(間違ってる!)

 

When someone takes you down
下ろしてもらえるとき

From the shelf
棚の上から

 

And plays with you some
それで少しでも遊んでもらえるとき

It’s wonderful
それは最高なこと

(Chorus: Wonderful)
(最高!)

 

I was a lonesome cowboy
オレは孤独なカウボーイだった

But not any more
でももうそうじゃない

I just found out
ちょうどわかったんだ

What love is about
愛がなにかってのを

I’ve never felt this way before
こんな風に思ったことはなかった

I was a lonesome cowboy
オレは孤独なカウボーイだった

But not any more
でももうそうじゃない

 

 

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実写アラジン新歌詞「Arabian Nights (2019)」和訳 これまでの歌詞変更の流れも紹介

はじめに

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www.youtube.com

アラジンといえば、A Whole New World, Friend Like Me, Prince Aliと名曲揃いですが、やはり外せないのがオープニングのArabian Nights(アラビアンナイト)。

92年のアニメ版こそ非常に短い曲ですが、ブロードウェイやその日本ローカル版の劇団四季の舞台をご覧になった方はその曲がどれほど長いダンスナンバーに昇華されているかご存知かと思いますが、私たちをアグラバーの世界へと引き込むのに重要な役割を担っています。

しかしそのArabian Nightsは、長らく論争の火種になってきて、その結果歌詞の変更がなされ来ました。

歌詞の対訳を紹介する前に少しだけ今回変更された部分についてこれまでの変遷とともに紹介します。

(とりあえず 実写 (2019年) 版 の歌詞の対訳だけ読みたい方は下へスクロールしてください)

「アラビア=野蛮」は差別的! 冒頭部分の変更 1992, 1994, 2019

1992年に全米で公開された直後、問題になったのはArabian Nightsの冒頭の歌詞の「顔を気に入られなかったら耳を切り落とされる」という部分。

反発を受けてディズニーは、劇場公開の翌年ビデオ版をリリースする際に一部歌詞を変更しました。そのことについて報道している1993年7月のLAタイムズの記事がネット上に残っているので紹介しておきます。

www.latimes.com

 

歌詞の変遷を記録しておきます。(変更される部分を太字にしています)

 

【オリジナル版(1992)】

Oh I come from a land, from a faraway place

そう、私は遥か遠い場所からやってきたよ

Where the caravan camels roam

隊商行列のラクダが歩き回るところ

Where they cut off your ear

耳を切り落とされる

If they don’t like your face

顔を気に入られなかったら

It’s barbaric, but hey, it’s home

野蛮だよね、でもほら、そこが故郷

 

【改訂版(1994−)Broadway版(2014-*)】

Oh I come from a land, from a faraway place

そう、私は遥か遠い場所からやってきたよ

Where the caravan camels roam

隊商行列のラクダが歩き回るところ

Where it’s flat and immense

起伏がなくてだだっ広くて

And the heat is intense

強烈に暑いところ

It’s barbaric, but hey, it’s home

野蛮だよね、でもほら、そこが故郷

 

※筆者がBroadway版を2019年1月に鑑賞した際
「barbaric」は「chaotic」に変更済みだったが、
CDや配信のサウンドトラックはそのまま。
変更後の歌詞は公式には発表されていない。

 

【実写版(2019)】

Oh, imagine a land, it's a faraway place

さぁ、こんな国を想像してごらん

それはそれは遠いところ

Where the caravan camels roam

隊商行列のラクダが歩き回り

Where you wander among every culture and tongue

あらゆる文化や言語の中をさまよえる

It’s chaotic, but hey, it’s home

カオスだよね、でもほら、そこが故郷

 

 

Arabian Nights (2019) の歌詞と対訳

新しい歌詞や変更箇所が多いため、アニメ版にもともとあった部分の歌詞だけ青字にしています。

 

[Genie(ジーニー)]

Oh, imagine a land, it's a faraway place

さぁ、こんな国を想像してごらん

それはそれは遠いところ

Where the caravan camels roam

隊商行列のラクダが歩き回り

Where you wander among every culture and tongue

あらゆる文化や言語の中をさまよえる

It’s chaotic, but hey, it’s home

カオスな場所、でもほら、そこが故郷

 

 

When the wind's from the east

東からの風が吹いて

And the sun's from the west

西日が差して

And the sand in the glass is right

砂時計の示す時が潮時を教えてくれたら

Come on down, stop on by

おいでよ、立ち寄りに

Hop a carpet and fly

カーペットに乗って飛んでおいで

To another Arabian night

もうひとつのアラビアンナイト千夜一夜物語)へ

 

 

As you wind through the streets at the fabled bazaars

架空のバザールの通りを風のように通り抜け

With the cardamom-cluttered stalls

カルダモンが雑然と置かれた露店のあるところ

You can smell every spice

いろんなスパイスの香りがしてくるよ

While you haggle the price

値切り交渉をしているうちに

Of the silks and the satin shawls

絹やサテンのショールのね

 

Oh, the music that plays

演奏される音楽

As you move through a maze

迷路のような場所を通っているとき

In the haze of your pure delight

無垢な喜びのもやの中

You are caught in a dance

ダンスに巻き込まれ

You are lost in the trance

催眠状態にかけられる

Of another Arabian night

このもうひとつのアラビアンナイト千夜一夜物語)のね

 

 

Arabian nights

アラビアンナイト

Like Arabian days

それはアラビアの日常のように

More often than not are hotter than hot

大抵それは暑いを通り越す暑さ

In a lot of good ways

いろんな良い意味でね

Arabian nights

アラビアンナイト

Like Arabian dreams

それはアラビアンドリームのように

This mystical land of magic and sand

この魔法と砂に満ちた神秘的な国

Is more than it seems

それは見かけ以上のもの

 

 

There's a road that may lead you

導いてくれる道がある

To good or to greed through

善へあるいは欲深さへ

The power your wishing commands

願いの命令の力を通じて

Let the darkness unfold of find fortunes untold

闇を広げさせるか あるいは 秘宝を見つけるか

Well, your destiny lies in your hands

そうさ、運命は自分の手の中にある

 

 

[セリフ:Cave of Wonder(魔法の洞窟)]

Only one may enter here

1人の者のみがここへ立ち入ることができる

One whose worth lies far within

はるか内部に眠る価値を持つもの

A diamond in the rough

ダイヤの原石だ

 

 

[Genie(ジーニー)]

Arabian nights

アラビアナイト

Like Arabian days

それはアラビアの日常のように

They seem to excite, take off and take flight

楽しそうで、離陸して飛んで

To shock and amaze

衝撃と驚きが待っている

Arabian nights

アラビアンナイト

'Neath Arabian moons

アラビアの月の下で

A fool off his guard could fall and fall hard

油断する愚か者は失敗し勢いよく落ちていく

Out there on the dunes

砂漠の上へ

 

新しく挿入された部分の歌詞をみると、この曲が、ランプを手にすることになるアラジンとジャファーの対比をしていることがよくわかります。

 

願いの命令によるパワー、すなわち「ジーニー」が、<善や秘宝>へ導いてくれるか、<欲深さや闇の拡張>へ導いてくれるか、運命はあなたの手の中に眠っている。

全てはあなたの選択次第、という。

 

  

あわせて読みたい

他にも新曲「Speechless」の歌詞と対訳を紹介しています!

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

 

実写アラジン「Speechless -心の声(劇中歌)」和訳と日本語歌詞(Aladdin 2019)

はじめに

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Naomi Scott as Jasmine (Aladdin 2019)

この曲は劇中で歌われる唯一の新曲であり映画としては初のジャスミンソロ曲です。この『Speechless』はパート1、パート2に分かれており、その二つを繋げたFullバージョンは映画本編では使われずサウンドトラックのみに含まれていますが、歌詞が微妙に異なります。

こちらで紹介してます。

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

ちなみに舞台版(ブロードウェイやその日本語版の劇団四季バージョン)ではいわゆる『I WISH ソング』としての「These Palace Walls」がありましたが、それはいわゆるアリエルのいうPart of "that" worldやベルの言う There must be more than this provincial life のようなファジーな、漠然とした「外への憧れ」を歌うような仕上がりでした。

それは舞台版が用意され始めたのが2011年前後であったことを考えればまあ妥当なのですが、2019年に実写化するにあたっては、すこし弱すぎると見られたのか、この、Speechlessはよりメッセージ性の強いものになってます。

なにせ、92年のアニメ版ではジャスミンは A WHOLE NEW WORLD の合いの手しか入れさせてもらえてなかったわけで、まさに「Speechless」、自分の本当の気持ちを歌わせてもらえてなかったということかもしれません。

 

さてさて前置きが長くなるのが私の悪い癖なので、早速歌詞へ。

毎度のことですが、対訳であり直訳ではないので、私の解釈がある程度反映されていることは考慮してください。また本編自体を見たわけではないので、解釈が大きくずれている可能性もあります点、ご了承ください。

 


Speechless (Part1) 歌詞と対訳と日本語歌詞(赤字)

youtu.be

[Verse 1: JASMINE]

Here comes a wave
Meant to wash me away
ほら 私を洗い流そうとする波がやってきた
取り残されそうなの

A tide that is taking me under
私を引きずり降ろそうとする大波が
暗闇にひとりで

Broken again
Left with nothing to say
またこうして壊されて
何も言わせてもらえない
言葉をかき消されて

My voice drowned out in the thunder
私の声は雷の音の中かき消される
心まで折られて

 

[Pre-Chorus: JASMINE]

But I can't cry
でも泣いてはいられない
でも負けない

And I can’t start to crumble
それに崩れ始めるなんてあり得ない
挫けはしない

Whenever they try
To shut me or cut me down
閉じ込められ切り裂かれそうになっても
裏切られ たとえ辛くても

 

[Chorus: JASMINE]

I can't stay silent
沈黙なんてしてられない
私はもう

Though they wanna keep me quiet
黙っていることを求められるけれども
これ以上黙って

And I tremble when they try it
そうされそうな時私は震えてしまう
いられない だから

All I know is I won't go speechless
わかってるのは私は無言でい続けることはないってこと
そうよ 声をあげて

 

Speechless (Part2) 歌詞と対訳と日本語歌詞(赤字)

youtu.be

[Verse: JASMINE]

Written in stone
Every rule, every word
石に刻まれる
あらゆる取り決め、あらゆる言葉
ただ黙っていることが

Centuries old and unbending
何世紀も昔からずっと変わらない
賢い生き方と

Stay in your place
Better seen and not heard
宮殿にとどまり
容姿は見られるようにして 意見は言わないようにしていた方がいいとされてきた
教えられて来たけど

But now that story is ending
でもほんなお話はお終い
間違いとわかった

 

[Pre-Chorus: JASMINE]

'Cause I
I cannot start to crumble
だって私
崩れ始められないもの
いま声をあげよう

So come on and try
かかってきなさい
そう誰にも

Try to shut me and cut me down
閉じ込め 切り裂こうとしてみなさい
邪魔はさせないから

 

[Chorus: JASMINE]

I won't be silenced
沈黙させられたりしない
私はもう

You can't keep me quiet
黙り続けさせられたりしないわ
これ以上黙って

Won't tremble when you try it
そうされそうでも震えたりしないわ
いられはしない

All I know is I won't go speechless
はっきりわかるの無言でい続けることはないって
心の声 あげて

Speechless
無言ではね
叫べ

Let the storm in
嵐をよび入れなさい
どんなに

I cannot be broken
壊れたりしないわ
裏切られても

No, I won't live unspoken
そうよ、私は言葉を発せずに生きたりしないわ
そうよ 負けない

'Cause I know that I won't go speechless
だってわかるの絶対無言でいたりしないってこと
声をあげて 叫べ

 

[Bridge: JASMINE]

Try to lock me in this cage
この牢屋に閉じ込めてみなさい
閉じ込められても

I won't just lay me down and die
横になって死んでいったりしないから
決して あきらめない

I will take these broken wings
この壊れた翼を持ち出して
折れた翼 空へ

And watch me burn across the sky
空を駆け抜け燃える私をみなさい
解き放って

And it echoes saying–
ほら響くこの声
こだまする

 

[Chorus: JASMINE]

I won't be silenced
私は沈黙させられないわ
その声 聴いて

No you will not see me tremble when you try it
ええ!そうされても私は怯えて震えたりしないわ
誰にも止められはしない

All I know is I won't go speechless
はっきり言えることは私は絶対無言にはならないってこと
心の声 あげて

Speechless
無言にはね!
叫べ


'Cause I'll breathe
When they try to suffocate me
だって窒息させられそうになった時は呼吸をするもの
今こそ 自由の扉開け

Don't you underestimate me
私のことみくびらないでよね
羽ばたいてみせる

'Cause I know that I won't go speechless
だって私は絶対に無言にはならないんだもの
なにも 誰も 恐れない

All I know is I won't go speechless
はっきり言えることは私は絶対に無言にはならないってこと
心の声あげて

Speechless
無言にはね!
叫べ