westergaard 作品分析

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トイストーリー4考察 <初期設定>と<子どもの作るストーリー>:「役者」としてのおもちゃの「予定調和」からの卒業

はじめに

トイストーリー4は公開以来、色々な評価がされていることは言うまでもないが、私は自分なりにどういう記事にまとめようかずっと悩んでいた。

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Dolly: "Okay, what is it with everyone jumping out the window?"

「これまでのキャラクターたちの登場シーンが少ない」ことも問題視されているが、逆に登場シーンが少ないにも関わらずそこで喋る台詞には意味があるだろう、と考え彼らに注目しながら3回目を鑑賞した時に2つの台詞が引っかかった。

1つは、ミスタープリックルパンツの「I don’t wanna play a baker role. The hat shop owner is what I’m born to play.(パン屋の役はやりたくない。帽子屋さんこそ自分が生まれつき合ってる役だ。)」という台詞。

もうひとつは、ドーリーの「What is it with everyone jumping out the window?(みんな窓から外へ飛び出すけど、いったいなんなの?)」という台詞。

この2つのセリフが、私がずっと考えていた「ウッディにとってのアンディとはなんだったのか?」「なぜウッディにとってアンディが重要だったのか?」という問いに対する答えへのヒントをくれた。

この記事では、それらを踏まえた私なりのトイストーリー4の考察を紹介してみようと思う。

 

端的に言えば…

私がトイストーリー4を、一文で説明するなら、
「『スター役者』として生きていたウッディが、突然舞台裏でのスタンバイを強いられ、『役:role』を与えられなくなり生きる意味を見失うも、『物語:ストーリー』から解放され、現実世界で『自分自身として』生きる選択をする話」
である。

ここでは《初期設定》《子どもの作るストーリー》という2つの観点から、「おもちゃ=役者」という視点を取り入れて分析、考察する。

分析の対象は、トイストーリーの長編4作に、中編の「トイストーリー謎の恐竜ワールド(Toy Story: That Time Forgot)」を加えた5作品。

 

トイストーリーにおける「遊びのシーン」:《子どもの作る物語:ストーリー》において《おもちゃ=役者》

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Andy's Playtime

1作目から3作目には必ずアンディによる遊びのシーンがある。
1作目は冒頭に現実世界のアンディの視点で。
2作目はアンディがキャンプに出かける直前に現実世界のアンディの視点で。
3作目は冒頭にアンディの空想世界の視点で。

3作目の遊びは、1作目と2作目での要素を足して、ボーピープがいなくなり、さらに2作目の最後に合流したジェシー、ブルズアイ、エイリアンズも登場する設定になっていたが、なによりも3作目での新しさは、初めてアンディが頭の中でイメージしている空想上の世界観が再現されたことだ。

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これを見てわかるように、ウッディたちが「アンディにおもちゃとして遊ばれる」ということは、「アンディが作るストーリーの役者である」ということとほぼ同義である。

f:id:ikyosuke203:20190727230405p:plainおもちゃが「役者」であることを強調するのは、3作目で初めて登場するボニーの部屋のおもちゃたちである。彼らは、ボニーの作るストーリーにおける役者だと認識していて、自分たちをその役に当てはめて即興劇をする。中でもミスター・プリックルパンツは初登場シーンから自分の役に「入っている」から邪魔しないでくれなどという台詞すらある。

そして今回4作目では、彼は話のメインパートである、「ロードトリップ」に連れて行かれない数少ないおもちゃのうちの1つのため、登場シーンはボニーが家を出る前の映画のごく最初の部分のみ。

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(参考)ボニーのおもちゃのうち…

  • ロードトリップに連れて行かれるおもちゃ:
    フォーキー、ドーリー、バターカップ、トリクシー

    (元アンディのおもちゃ)ジェシー、ブルズアイ、バズ、ミスター&ミセスポテトヘッド、レックス、スリンキー、ハム、ウッディ
  • 部屋に残されるおもちゃ:
    ミスタープリックルパンツ、エイリアンズ、クローゼットのおもちゃたち

ちなみに、家に残っているおもちゃたちがあまりにも限られているので、ピクサー作品のディスク版リリース時によくある、「本編でメインストーリーの進行中、見えていない場所で何が起こっていたかを描く短編」としてエイリアンズとプリックルパンツの短編が作られているんじゃないか、と予想しています。

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なんといっても、3作目のエンドロールで「ロミジュリ」をやっているこの4人ですからね。。。笑

 

おもちゃが子どもに演じさせられる《role:役割》と、製造時の《設定》

4作目におけるミスター・プリックルパンツは、非常に短い登場シーンにおける数少ないセリフのうちの1つとして次のような発言をする。

「I don’t wanna play a baker role. The hat shop owner is what I’m born to play.(パン屋の役はやりたくない。帽子屋さんこそ自分が生まれつき合ってる役だ。)」と。

プリックルパンツが、役者的に生きていて、演じることに対してこだわりがあることは3作目で強調されていたため、それをなぞる形でのギャグであることは確かだが、それでもわざわざこれをセリフとして加えるからには理由があるはずである。

特にこのシーンは、ウッディが自分自身のいまの役割に満足できないシーンであり、このパン屋の役が不満であるプリックルパンツはその投影であると考えるのが妥当であろう。

ではこの「role:役割」とは何であろうか?
もちろんプリックルパンツが話しているのは「ボニーが遊ぶ際に、空想している世界観」の中での「role:役割」だ。

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しかし、ウッディの場合はどうであろうか?ウッディはいま、ボニーの部屋では「選ばれない」ため、何の役割も与えられていない。

では、アンディの元ではどうだったか?ウッディは必ず「主役」「ヒーロー」で悪者の「ドクター・ポークチョップ」を倒したり「ボーピープ」を助けたりしていた。

このように考えると、いまボニーの家でウッディが不満なのはもちろん「遊ばれていない」ことなのだが、何の「役割も演じられない、与えられない」=「何にもなれない」ということによるのかもしれないと考えられる。

もちろんウッディは何もしなくても「シェリフ・ウッディ」と保安官である。しかしその「シェリフ・保安官」を示すバッジさえ取り上げられて、ジェシーに付け替えられてしまうのだ。ボニーの世界では「シェリフ・保安官」はジェシーになってしまっているのである。

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この「シェリフ」と言う「role:役割」は、プリックルパンツが「パン屋」をやるのとは少し次元が違う話である。なぜならウッディは<も・と・も・と>「シェリフ」として設定されているからだ。
ちょうど、バズ・ライトイヤーが悪の帝王ザーグを倒す「スペースレンジャー」として設定されていたように。

 

これらのことを整理して話をするには、トイストーリーの1作目や2作目での描かれ方を検証する必要がある。

 

トイストーリーにおける三層の「ストーリー」の構造

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トイストーリーという映画においては、基本的に

(層1)アンディやボニーたち人間のいる世界で起きている出来事
:基本的にはトイストーリーという映画の中ではこれがメインに描かれる

(層2)アンディやボニーたち子どもが遊ぶ際に空想する世界の中でのストーリー
:《子どもが作るストーリー》

(層3)おもちゃに対しメーカーに設定されたストーリー
:《初期設定のストーリー》
:「ウッディのラウンドアップ」「スペースレンジャー・バズ・ライトイヤー

3つの層の重なりで構成されていると考えられる。

 

1作目で、バズ・ライトイヤーは(層3)の《初期設定のストーリー》が現実だと思い込み、自分がホンモノの「スペースレンジャー・バズ・ライトイヤー」であると考えていたものの、ウッディとの冒険を通して自分がおもちゃであることを自覚し、受け入れる。おもちゃであることを受け入れる過程で、ウッディが「おもちゃであることの素晴らしさ」を語る。それは次のようなセリフだった。

f:id:ikyosuke203:20190729010257p:plainBeing a toy is a lot better than being a Space Ranger.
(おもちゃであることは、スペースレンジャーであることよりずっと良いんだ。)
*中略*
Look, over in that house is a kid who thinks you are the greatest, and it’s not because you’re a Spac Ranger, pal, it’s because you’re a TOY! You are HIS toy.
(見て、あの家の中には君のことを最高なやつだと思ってる子供がいるんだ。それは君がスペースレンジャーだからじゃない、おもちゃだからだよ!君は彼のおもちゃなんだよ。)

 

2作目では、ウッディの《初期設定》が明かされ、ウッディ自身が再び《子どものおもちゃになる・である》ことを再度選択することになった。

 

《初期設定》とは何か、逆に《子どものおもちゃになる》とはどういうことか?:3作を通して描かれたウッディの考え方

【1】トイストーリー2において「博物館に行く」のではなく「アンディの元に帰る」決断をしたことの意義:<「永遠の命」vs「有限の人生」>ではない観点から

ウッディは自分自身の初期設定は「なぜか」忘れており、2作目でアルに誘拐された先でジェシーたちと出会い初めて知ることになる。
(この理由は結局4作目でも明かされなかったため、今後の短編や中編、あるいは続編で触れられる可能性は十分にあるだろう。なにせ彼が1950年代後半に製造されているならその人生の大半はまだ語られていないのだから。)

自分の「ウッディのラウンドアップ」の一員としての意識と、「博物館で永遠の命を手に入れる」という考えが、アンディの元へ戻ることに対立する誘惑となるも、1作目の時に自分がバズへ説いた「おもちゃは子どもを幸せにして初めて意味がある」という言葉に、ハッとしてアンディの元へ帰る。

 

この2作目におけるウッディの選択は、ストーリーの構成上どうしても「子どもは成長しいつかはおもちゃはいらなくなる」「いつかは捨てられたり、寄付されたりするかもしれないという <有限性の中で生きること> を受け入れたという選択であることが強調されている。そしてそれが3作目への直接的なつながりになる。 

 

参考)
(1)ジェシーの過去を知ったウッディに対してかけるプロスペクターのセリフがこれ。

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PROSPECTOR:
Andys growing up . . . and theres nothing you can do about it.
アンディは成長する…それは君にはどうすることもできない。
Its your choice, Woody.
自分の選択だぞ、ウッディ。
You can go back, or you can stay with us and last forever.
アンディの元へ戻ることもできるし、私たちといれば永遠に生きることができる。
Youll be adored by children for generations.
何世代もの子どもたちに愛されるんだぞ。

 

(2)そしてバズとの会話においては彼の考えがウッディの中に内面化されているのが次の会話でわかる。

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WOODY: Look, the thing is . . . Im a rare Sheriff Woody doll, and these guys are my Roundup gang.
ウッディ:見ろだからな、オレはレアなウッディ保安官人形で、こいつらはオレのラウンドアップの仲間たち。

BUZZ: Woody, youre not a collectors item. Youre a childs plaything. You are a toy!
バズ:ウッディ、君はコレクターアイテムじゃない。子どもの遊びのためのものだ。おもちゃなんだ!

WOODY: For how much longer?
ウッディ:それはいつまで続く?

BUZZ: Somewhere in that pad of stuffing is a toy who taught me . . . lifes only worth living if youre bein loved by a kid. And I traveled all this way to rescue that toy . . . because I believed him.
バズ:いつか詰め物をした奴(ウッディ)が私に教えてくれた。おもちゃの人生はひとりの子どもに愛されている状態になって初めて価値がある、と。そのおもちゃを助けるためにここまで遥々旅して来た、彼を信じていたからだ。

WOODY: I dont have a choice, Buzz. This is my only chance.
ウッディ:オレには選択の余地がないんだ、バズ。これが唯一のチャンスなんだ。

BUZZ: To do what, Woody? Watch kids from behind the glass and never be loved again? Some life.
バズ:なんのチャンスなんだ、ウッディ?子ども達をガラスの向こう側から眺めて、一生愛されないためのか?大した人生だな。

 

(3)これらを経てウッディは決断をする

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WOODY: You're right, Prospector. I can't stop Andy growing up. But I wouldn't miss it for the world.
ウッディ:あんたは正しい、プロスペクター。確かにアンディの成長は止められない。でも、何としてもそれを見逃すわけにいかないんだ。

 

しかし、この決断は単純に「博物館に行く=永遠の命を手に入れる」と「アンディの元へ戻る=有限の人生を受け入れる」というだけではない意味が含まれている。

 

これを解釈するには、ジェシーがどういう状況にあったかを振り返る必要がある。なぜならこの時点でのジェシーは、ウッディの未来シミュレーターでもあるからだ。

ジェシーはエミリーという少女の持ち物で、アンディがウッディを愛したのと同じかそれ以上に大切にされていた。しかしエミリーは成長し次第にジェシーに対する関心を失って行く。ベッドの下に長らく放置された後、エミリーはジェシーをチャリティ行きの不用品として箱に入れて去ってしまう。ジェシーはこのことがトラウマになり、プロスペクターたちと博物館に行ってラウンドアップのシリーズ商品として展示される人生を望んでいたが、それもウッディが揃わないことによって叶わずにいた。長らく倉庫の中に置かれていたことから暗闇対する恐怖心は人一倍強く、トイストーリー3で屋根裏に連れていかれることや、トイストーリーオブテラー、トイストーリー4の冒頭のクローゼットのシーンでもそのことがまだ影響している様子が描かれる。

ジェシーの過去として描かれる、サラ・マクラクランの名曲When She Loved Meにのせられた回想シークエンスは、ウッディの未来のシミュレーションでもあり、それを知った上でもバズを通して自分の声を聞いたウッディは上のような決断をし、ジェシーも一緒にアンディの元へ行くように誘う。その時の口説き文句がこれだ。

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WOODY: Hey, you guys, come with me.
ウッディ:ねえ、君達も、一緒に来いよ。

JESSIE: What?
ジェシー:え?

WOODY: Andy will play with all of us. I know it!
ウッディ:アンディはオレたちみんなと遊んでくれるよ。絶対!

JESSIE: Woody, I-I . . . I don’t know. I . . . 
ジェシー:ウッディ、私、…わからないよ…

WOODY: Wouldn’t you give anything just to have one more day with Emily? Come on, Jessie. This is what it’s all about: To make a child happy.
ウッディ:エミリーともう1日遊べるとしたらなんだってするだろう?おいでよジェシー。これが全てだろう。一人の子どもを幸せにするってことが。

 

ここでウッディはジェシーを説得しているようで、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえます。

一度エミリーの成長によって捨てられたことで、その有限性のある人生に対するトラウマを持ったジェシーを再び有限性のある人生へと誘っていることは、同時に自分がそうなるという有限性を受け入れる覚悟の表明でもあると捉えられるからだ。

しかし、この<永遠の命>と<有限の人生>という対比による誘い文句だけではジェシーがアンディのところへ来るわけではない。これはストーリーの展開上そうなっているだけ、と言われてしまうかもしれないが、映画として描くにあたってこれだけで葛藤を終わらせなかったのには意義があると考えられる。

 

では、「博物館に行く」と「アンディの元へ戻る」という選択肢の<無限性>vs<有限性>ではない意味とはなにか。

それが現れているシーンが2作目のクライマックスに当たる「ジェシー救出シーン」だ。このクライマックスの救出は現実世界で起きていること(層1)と設定されたストーリー(層3)が重なる形で描かれるのがポイントだ。

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空港で、離陸する飛行機に乗せられる荷物からジェシーを救出する際、ウッディとバズはブルズアイに乗ってラゲッジトラックを追跡する。このシーンの背景にかかっている音楽は、ウッディがジェシーたちとアルの部屋で視聴していた「ウッディのラウンドアップ」の番組内でウッディが、爆発する炭鉱に閉じ込められたジェシーとプロスペクターを助けに行く際にブルズアイに乗って走っている時の曲と同じだ。

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ウッディのラウンドアップは、1957年のソ連人工衛星スプートニク」の打ち上げ成功によって、世界の関心が宇宙のことへ移った結果、人気がなくなり番組自体が打ち切りになった。劇中で描かれたウッディがジェシーたちを救出しに行くエピソードは打ち切りになる直前の最後のエピソードだったが、実際助けられたかどうかが明かされる次のエピソードは放送されなかった。

このことが、現実世界(層1)の救出シーンにおいてもジェシーとの会話で言及される。

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WOODY: Jessie, let go of the plane!
ウッディ:ジェシー、飛行機から手を離せ!

JESSIE: What? Are you crazy?
ジェシー:は?ふざけてるの?

WOODY: Just pretend its the final episode of Woodys Roundup.
ウッディ:ちょっと「ウッディのラウンドアップ」の最終エピソードだと思ってやってみるんだ!

JESSIE: But it was canceled! We never saw if you made it!
ジェシー:でもそれはキャンセルになったの!あなたが成功したかどうか見られてないの!

WOODY: Well, then lets find out together!
それなら、どうなったかを一緒に確かめてみようぜ!

 

これがアンディの元へ行くまでの最後の会話となる。逆に言えばここでの会話と行動によってジェシーの心は決まったとも言える。(もちろん、この時納得しようがしまいが手を離さなければそれこそ大惨事なわけだが…そのことは考慮しない)

つまりジェシーに対して一番説得力があったのは

「Well, then let's find out together!(それなら、どうなったかを一緒に確かめてみようぜ)」というセリフ。

彼らの<初期設定>としての「ウッディのラウンドアップ」は放送打ち切りにより結末が示されていない。もちろん子ども向けの番組であるのだから、“ウッディは無事に間に合ってジェシーとプロスペクターは無事に助かりました”、というハッピーエンド、予定調和(established harmony)が訪れるであろうことは誰でも想像できる。

しかし、予定調和は描かれず、ウッディは現実世界で飛行機から飛び降りる決断をする際に、一緒にその結果を確かめよう、というのである。

これはつまり、初期設定として他人に用意されている「ウッディのラウンドアップ」のストーリーに乗るではなく、そこから飛び降りて、現実に直面しようという決断とも取れる。

ではなぜ、ウッディはその現実に直面することを選び、それをジェシーにも進めるのか?それはアンディがいるからだ。

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ではアンディとはなんなのか?

実際、3作目では、プロスペクターが説いていた見通し(英語では prospect)のように、アンディは大人になりおもちゃとは遊ばなくなってしまったことが示される。

しかし冒頭でウッディたちの幸せな日々として描かれるシーンは、アンディのつくるストーリーの中で実際に「生きている」ウッディたちが展開する「<拡張型>西部劇」だ。

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白黒の操り人形と書き割りのセットで描かれていた「ウッディのラウンドアップ」をはるかに超えるフルCGの世界観で展開されるアンディのつくるストーリーには、おもちゃのメーカーが想定したシリーズに関係なく、さらには本来貯金箱であるはずのハムがドクターポークチョップとして登場したり、ゲームセンターの景品のエイリアンが妹の所持しているバービーの車を運転してきたりする。

子どもの想像する世界で展開されるストーリーは、テレビ番組として作られるストーリーよりもずっと創造性に富んでいて面白いし、楽しいし、プロダクションが打ち切られることも、制作費用の制約や、版権の問題も何もない。

だから「アンディが成長することを止められなかったとしても、それを見ずに逃すことはできない」のだ。

実際そこにはウッディと一緒にあの時「ラウンドアップの最終回」として飛行機から飛び降りたジェシーも一緒にアンディの世界での「役者」として「生きて」いる様子が描かれていた。

 

端的に言い換えれば、ウッディは「有限性の中で生きる」という制約を受け入れてでも「子どもの作る物語の中で生きること」を選択したということだ。アンディと一緒にいるというのはそういうことだ。
ラウンドアップ」の一員として展示されていればウッディは、「ラウンドアップの主人公のシェリフ・ウッディ」でしかない。他のなにでもない。

しかしアンディの部屋にいれば、ウッディはウッディでもアンディが想像するどんな役にでもなれる。

 

【2】トイストーリー3においてウッディが「アンディの元に帰る」ことに固執した理由:同時に「ボニーの元へ行く」ことで期待した「予定調和」

ウッディの場合、問題は、そのあとだった。

アンディの部屋にいればアンディが想像するどんな役にでもなれたが、そのアンディが大人になりおもちゃで遊ばなくなった時、何にもなれなくなった。

だから彼は次に「アンディのおもちゃであること」に重きを置いた。そのためあの時点での彼に保育園で生きるという選択肢はあり得なかった。

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それがあの保育園での1人での脱出シーンにも現れているのだと考えられる。もちろんあれは他のおもちゃたちが捨てられたと勘違いしているから、という側面も大きいが、ウッディにとって保育園で生きることはありえなかったのである。仮にチョウチョ組だったとしても。

そんなウッディも、アンディのところに戻っても遊んでもらうことはできないということは自覚している。そんな中、出会ったのがボニー。

ボニーはアンディと同様、おもちゃをいろんな役に見立てて自分で展開する物語の中で遊ぶ子どもだった。前述の通りおもちゃたちは自分たちを「役者」だと思っていた。

だからウッディは、バズやジェシーたちをアンディの家の屋根裏ではなく、ボニーたちの元へ送るように仕込んだし、自分自身もそこへ行く決断をした。その方が「幸せ」だろうと考えたからだ。それは「ボニーならアンディと同じようにおもちゃを役者に見立てて色々なストーリーを展開しながら遊んでくれる」と考えたからだろう。

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これはアンディも同じ視点であると考えていて、アンディが安心してウッディたちをボニーに譲ったのは、ボニーがアンディと同じように物語を作ってその中でおもちゃたちを「役者」として遊んでいたからだということが、その様子を最初に目にした時の彼の微笑んだ描写から読み取ることができる。

また、ボニーがおもちゃを「役者」に見立てておもちゃを遊ぶ人であることの重要性が強調されるのは「トイストーリー・謎の恐竜ワールド(Toy Story That Time Forgot)」でもそうだ。

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ここでは、クリスマスに金持ちの家の子どもにセットで買い与えられたバトルザウルスたちが、1作目のバズのように自分たちを本物のバトルザウルスだと思い込んでいて、一匹だけおもちゃであることを認識しているCleric(「聖職者」という意味の名前:つまりこれは「宗教」のメタファーだろう、ピクサーにしても攻めたものだ)が、それ以外のおもちゃたちを恐竜だと思い込ませたまま支配している世界が描かれた。そこでボニーのおもちゃである恐竜のトリクシーが、仲良くなったレプティラス・マキシマスに自分がおもちゃであることを自覚させると同時に、「おもちゃであることがどれだけ素晴らしいことか」を説くという、1作目でウッディがバズにやったことと同じことを繰り返す。

この時トリクシーが、自分のことを「恐竜」として遊んでくれないボニーに対して不満を抱いていたにも関わらず、おもちゃであることを認識させるために彼を説く過程で、自分がボニーの想像によって何にでもなれるということの素晴らしさに気づいていく様子がシリーズとしてはパロディ的に描かれていく。

トリクシーがアンディからの貰い物ではなく、もとからボニーのおもちゃだったことは、ボニーがアンディと同様におもちゃたちがその喜びを自覚するくらいに愛し、その遊び方で遊んでいるということがはっきり示されたと言って構わないだろう。

 

【3】トイストーリー4:「予定調和」が崩れた時、「心の声」に気づく

しかし問題は、ウッディが想定していた、ボニーなら自分たちみんなと遊んでくれるだろうという予定調和が現実にならなかったことだ。

この予定調和は、ウッディの想定していた「予定調和」であると同時に、我々観客やおそらく製作したピクサー側も想定していた「予定調和」であると考えられる。この「予定調和」が破られた前提で物語がスタートし、さらにシリーズとしての「予定調和」を崩しに行くのだから受け入れられない人が出るのは当然かもしれない。

 

ここが4作目の冒頭で提示されるウッディ・ネグレクト問題。

ウッディにとって遊んでもらうとはある意味役者のプリンシパルになること。スタンバイではダメなのだ。しかも今まではずっとスターで主役を張っていた。

ウッディにとっては他のおもちゃたちと違って、単純に遊んでもらえないという意味だけではない。彼の場合、役者として「ショー」に出られないなら、物語の中での役割をもらえないなら、生きている意味が見出せない、という状況になっていたのだ。

ウッディの視点では「ラウンドアップのショーのスターとして生きる」こともできたが、その代わりに、「アンディ劇場のスター」として生きる選択をしたが、「ボニー劇場では舞台裏でスタンバイ」のような立場になっているという認識だと考えられる。

これがアンディに固執した、言い換えれば「役者」として生きることに全てを懸けてきたウッディの成れの果てである。誰かに「役:role」を与えてもらわないと生きられなくなってしまっていたのだ。

 

空想の世界(層2)での「役:role」を与えてもらえなくなったウッディは、ボニーを助けるという現実世界(層1)での役割を見出だそうとするもドーリーに止められる。しかしウッディは「それしかすることがない」のでルールを破ってリュックに入って行き、リスクを冒してボニーを助ける。そこで生まれたのが「フォーキー」。

これ以降は「フォーキーが自分からゴミに戻っていかないようにする」ということがウッディの新たな「役:role」になっていく。

そしてウッディが言うには「自分の中の小さな声がこれ(フォーキーを助ける役割)を投げ出したらダメだと言っている」と言うのだ。

そして、この直後にフォーキーが「自由になるため」に窓から飛び出し、それを追いかけてウッディも窓から飛び出す。

日本語では「心の声」と訳されているこのinnner voiceが意味するところはなんなのだろうか。

ここからはこれを検証していく。

 

《窓から飛び出す》とは何か

【1】ボー・ピープは「ショー・"ウィンドウ"」から飛び出した

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この記事の冒頭で、私に気づきを与えた2つのセリフのうちの一つとして、ドーリーの「What is it with everyone jumping out the window?(みんな窓から外へ飛び出すけど、いったいなんなの?)」を挙げた。

これはもちろん、フォーキーが窓から飛び出し、追いかけてウッディが飛び出し、そしてバズまでもウッディたちを探しにいくために飛び出したことについて、半分呆れながらしている発言だ。しかし、わざわざ窓から飛び出すことについて言及している意味はなんだろうか。

Twitterのフォロワーさんの一人 @10Ru_a_tnk さんがこのようなツイートをしていた。

窓から飛び出したおもちゃたちのうち、ウッディ以外は帰って来ることを指摘し、ウッディがフォーキーの言ったように「freedom」になった、という観察だ。

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窓から飛び出す、という言葉に着目して映画をもう一度鑑賞した時、冒頭のRC救出シーンも窓からウッディがスリンキーに乗って飛び降りる。しかし窓から中に入ろうとした時、アンディのママがきて閉められてしまう。

その時、ボー・ピープは箱に入れられ別の持ち主の元へ連れていかれてしまうことに気づいたウッディは、窓から戻らず、車の下に置かれたボーの入った箱へ向かう。

このときウッディは、次の持ち主の元へ行くことを受け入れているボーに一緒に来ることを誘われる。これは明言されていないが、ボーピープは「子どもは日常的におもちゃを失くす。時には庭におき忘れたり、時には入れる箱を間違えたり…」と言い、自分のとなりに空間があることを手で示す。ビリー、ゴート、グラフも後ずさりし空間を作る。ウッディは「その箱はどこかへ持っていかれる」と言って、ボーの提案を理解し、受け入れ、実際に箱に入ろうとフチへ手をかけるが、その瞬間アンディがウッディがいなくなったことに気づいて外へ探しに出て来る。

ウッディはこの時、一緒に箱に入っていれば、ボーと同じように早いうちに「freedom」になれたかもしれなかったが、それは選ばなかった。結局この時はアンディが探しに来てくれて、中に戻ることになった。これが冒頭で描かれたことだ。「窓から出て行き自由になれたかもしれなかった」エピソードと言える。

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時系列的に、次に窓から飛び出したのは実のところ、ボーであると考えられる。

ボーが窓から飛び出したシーンは映画の中では描かれないが、ボーのランプはアンティークショップの通りに面したショーウィンドウに置かれていた。

あのアンティークショップの店主マーガレットばあちゃんは全然在庫管理ができていないので、おそらくボーのランプはずっとあの場所に置いたまんまであろうから、ボーが2、3年あのアンティークショップにいたときからずっとあそこにあったと考えられる。

通りに面したショーウィンドウに飾られていたボーは何を見ていただろうか。あの街にも子どもたちは住んでいたようだから、きっと「子どもたちをガラス越しに見て、誰かに愛されることなく」、「埃をかぶり続けていた(4作目のボーの台詞より)」と考えられる。

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「子どもたちをガラス越しにみて、誰かに愛されることなく(2作目のバズの台詞)」過ごしていたかもしれないのは、博物館に行っていた場合のウッディであり、「埃をかぶり続けていた」のはジェシーである。

ボーはウッディが体験したかもしれない両方の体験を同時にしていたのだと考えられる。あるいはアンティークショップにたどり着くまでにもっと悲惨な体験をしていたのかもしれない。私たちには見せられていないが。

この辺りについては今年末にアメリカでローンチされる配信サービス「Disney+」のスピンオフシリーズ「Lamp Life」としてボーピープの4作目の回想シーンから再登場シーンまでの間の人生を描く作品が公開されることがアナウンスされているのでそこで明かされるかもしれない。

 

【2】ボーは2つの意味で「free」になった

 とにかくボーは、待っているだけの人生には耐えられず、「jumping out the window」して、フォーキーがそれを目指したように確かに「freedom」になったのだ。

しかしボーの場合の「freedom」は「おもちゃとして遊ばれること」を捨てたのではない。

この点については、4作目の劇中でボーが遊ばれているのはウッディと再会するあの一瞬だけ、おそらく30秒以下であるため、ボーが遊ばれている人生であることはほとんど強調されないのでわかりづらい。しかし、ボーは「特定の子どもの持ち物」として生きることをやめただけで、「遊ばれること」はやめていないし、むしろ「遊ばれ続けるため」にいつ壊れてもいいように準備したり、長距離人に気付かれずに移動するための手段を備えていたりしているのだ。

ウッディが最後にあの選択をした後、「子どもに遊ばれない人生」を送っているのではなく、むしろ不特定多数の子どもに遊ばれまくっているということも同時に示している。

では先ほどまで論じていた「子どもの作るストーリーの中で生きる」話とどのようにこれが関係するのか?

「ウッディのラウンドアップ」の世界で生きることではなく、アンディのつくるストーリーの中で生きることを選択したウッディは、アンディの元にいる限り、アンディの世界の中である程度一貫したストーリーが組み立てられその中で「役者」を演じ続けることができた。しかし不特定多数の子どもと遊ぶということは、いろんなストーリーの中に身を置くことを意味する。

このようにまずは、一人の子どものおもちゃとして生きる=一つのストーリーの中だけで生きることから「自由」になった。

もう一つの意味での「自由」は、文字通りどこへでもいけるし、おもちゃとして遊ばれる以外にも一人の個人として生きられるという意味でだ。これについてはまた後ほど触れる。

 

《初期設定》が生じさせる「生きづらさ」を抱えるアンティークトイたちが解放される時:デュークが決めたジャンプの意味

そんなボーに助けられフォーキー救出に当たるウッディだが、その過程でいろいろな<初期設定のストーリー>に縛られ生きづらさを抱えているおもちゃたちに出会うことになる。

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デューク・カブーンは、「コマーシャル」のようにジャンプを決められなかったせいで開封直後に持ち主に捨てられ、今でもそのことがトラウマになり自分自身に自信が持てないでいる。

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ギャビーギャビーは、製造時から紐を引いて声を出すプルストリングのボイスボックスに製造欠陥があり、うまく声を出せない。そのためおそらく製造された後今まで60年間ずっと毎日自分の <設定> の描かれた絵本を繰り返し読み、ボイスボックスさえ手に入ればその絵本に描かれている通り、子どもに愛されると思っている。
そして今いるアンティーク店の店主マーガレットの孫であるハーモニーに愛されるはずだと思って毎日化粧をし、絵本に書いてある通りのティータイムごっこの練習をしている。それが「予定調和」だと思って疑わないからである。

ちなみに「予定調和」は英語で「Established Harmony:作り上げられたハーモニー(調和)」だ。『ハーモニーのものになる』とはまさにギャビーが作り上げた予定調和なのだ。私がこれまで「予定調和」を強調して来たのはここに通ずるからだ。

それぞれ、自分が生まれる前に製造する側の人間によって作られた設定に縛られているからこそ、現在の自分の在り方に納得できず、生きづらさを抱えていると言える。

 

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ではデュークカブーンが最後に観覧車からのジャンプをすることはどういう意味があるのだろうか。

あのジャンプは、過去の<設定>や、それによって生じたトラウマを克服できさえすれば、ボーの言葉で言えば「今の自分になれる」。そうすれば、今まで自分にできるはずがないと思っていたことさえできるようになるということである。

過去に縛られ、自分が期待していた予定調和に裏切られたことに傷ついている、ウッディやギャビーの目の前で、飛べないから生きる意味がないと思っていたカブーンが飛ぶことで、彼らに勇気を与えることになる。

だからこそ、ギャビーはそれまで一度もやったことがなかったまだ一ミリも知らない見つけたばかりの迷子の子どもの助けになる、という役割を自ら見出し、挑戦するし、

デュークに勇気づけられてチャレンジしたギャビーを見たウッディは、さらにバズの後押しに助けられ、新たな人生を踏み出すことになる。

 

必要なものは全て自分の内にある・加えて必要なのは「認識の変化」と「状況に応じた条件の調整」

ここで重要なのは、カブーンはこのジャンプを今までできないと思っていただけで、今までもできたかもしれないということ。カブーンがトラウマになっている「コマーシャルのようにジャンプができなかったせいでリジャーンに捨てられた」というのは、リジャーンが十分にカブーンが飛べるような助走をつけていなかったことや、ジャンプ台の角度や長さの設定など様々な要因の結果である。リジャーンが捨てたということは変わらないが、カブーン自体の「物理的な身体能力」が変わったわけではない。カブーンの認識が変わり、また条件を変えたことで、観覧車からの大ジャンプを決められたのだ。

これはちょうど、ボー・ピープ自身の変貌とも連動している。

 

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【1】ボー・ピープの「変貌」は認識の変化の表れ 

発表当初話題になった「ボー・ピープ」の大変貌。ドレスを脱いでパンツ姿になった新しい衣装は、「昨今のアクティヴ・ヒロインの再生産か。これだからフェミニストは。」という否定的な意見が飛び交ったのは記憶に新しい。

しかし、彼女自身の変貌は新しく何かを身につけたのではなく、自身が持っていたものへの見方を変えることで構成されている。

 

この方のツイートにもあるように、スカートの生地を裏返してマントにする、というのは、もともと彼女が自分の内側に持っていた内面的な強さを外に出したということをビジュアル化していると捉えることができる。

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また、本編をしっかり見てみれば、「Ralph Breaks the Internet(シュガー・ラッシュ:オンライン)」でドレスを脱いで部屋着姿がデフォルトになったプリンセスたちとは異なり、ボーはシーンに応じて衣装を変え続けている。スカートのシーンもあれば、マントにしているシーンもあるし、身軽に何も身につけない時もある。

私が参加できたピクサーのひみつ展での特別イベントに講演しにきたピクサーのキャラクター・テーラリング・シミュレーション(衣装についての技術的な調整をする仕事)を担当する小西園子さんによれば、トイストーリーシリーズで一作品のなかでこれほど着替えるキャラクターは今までいなかったとか。

ボー・ピープがこれまで冒険に出なかったのは、製作者側が「彼女が陶器であり割れてしまう可能性があるからできない」のだと考えていたということすらまことしやかに言われているが、その製作者側の認識すら彼女は覆してしまう。
単純な話だが「割れたらテープで止めてくっつければいい」という認識が4作目で端的に示されていた。

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トイストーリーで手が取れるのは、ジンクスだが、1回目にバズの手が取れた時ボーは、真っ青になって叫んでいる。2作目でウッディの腕が完全に取れたのはアルの部屋でだったためボーは見ていないが、1作目の叫ぶシーンと4作目でのボーの腕が取れた時の反応を比べると、その変化は顕著である。手が取れたことを本気で怖がるウッディをボーは笑い飛ばすのだから。

 

【2】ウッディの「予定調和」に対する認識の変化

ウッディに着目すると、ジェシーをアンディの元へ再アドプトするなど、4作目の最後に始める人生に近いことはもともとしていた。実際4作目の中においても、ダッキーとバニーにボニーの元へ連れて行くことを約束したり、ギャビーギャビーヘボニーの元へ行くことを提案するなど、徐々におもちゃを子どもにマッチングさせることをし始める。

しかし、ジェシーをアンディの元へ連れていった時と、ギャビーギャビーをボニーの元へ向けて連れて行こうとした時には決定的に違う点がある。

 

実際会話のシチュエーションは非常に似せて作られており、シリーズを超えて対比しようとしている意図は明らかである。

 

(1)ジェシーへの口説き

JESSIE: But what if Andy doesn’t like me?
ジェシー:もしアンディに好かれなかったらどうしよう?

WOODY: Nonsense! Andy’ll love you!
ウッディ:そんなバカな!アンディは君のこと気に入るよ!

 

(2)ギャビーへの口説き

GABBY GABBY: But what if you’re wrong?
ギャビーギャビー:でももしあなたが間違ってたら?(ボニーに気に入られなかったら?)

WOODY: Well, if you sit on a shelf the rest of your life . . . you'll never find out, will you?
それでも、これから一生棚の上に座っていたら…それを確かめることすらできないんじゃない?

 

決定的に違うのは、(1)では妄信的にアンディがジェシーのことを愛すると信じ込んでいてそれが前提でジェシーを説得しているのに対し、(2)ではボニーがギャビーのことを気にいるかどうかはわからないけど、それでも行動して見なきゃ何も変わらないということを認識した上で説得しているということ。

そして後者の考え方は4作目の冒険を通してボーからインストールされたウッディにとっては新しい考え方だ。この「棚の上に座ってたら何も変わらない」というのはボーの言葉の引用である。

 

先に確認したジェシーの説得がそうであったように、このギャビーの説得も、ギャビーに向けているようでウッディが自分自身に言い聞かせていることと捉えることができると考えると、これはウッディ自身が『予定調和』(=「Established Harmony」=「ウッディにとってのハーモニー:すなわちアンディ)がない世界において生きて行くことを決意したことの現れと捉えられる。

だからこの次の瞬間ボー・ピープが助けに帰って来てくれて、「He's right」と言うのだ。あれはウッディがアンディから卒業した、つまりウッディが「予定調和」を前提とした認識を捨てた瞬間なのだ。

 

「棚の上に座り続ける」か「窓から飛び出す」か:それぞれの「ストーリー:予定調和」からの解放

そしてこの「Sit on a shelf the rest of your life」と対比される表現が先に見た「Jumping out of the window」だと考えられる。

ギャビーギャビーは、ボーと違って通りに面したショーウィンドウではなかったが、ガラス張りの飾り棚に居場所があったことは映画の中で描写されており、この説得ののちにアンティークショップを出ていったことからも、ギャビーが「窓の外へ飛び出した」描写になっていることが確認できる。

 

ギャビーギャビーはこの時、あのずっと繰り返し読んでいた「絵本」は持っていかない。
同様にデュークカブーンも、「ランチャー」は棚の上に置いて来たままだ。そのため観覧車からのジャンプの際には台座の代わりに、ダッキーとバニーが後輪のゼンマイを回して準備している様子が描かれた。
もちろんボーピープのランプはショーウィンドウの中に置きっぱなしだ。

このように、ギャビーは絵本を、カブーンはランチャーを、ボーはランプを、それぞれ全てあのアンティークショップの中に置いてきた。

これが意味するところは、それぞれが自分に<設定されたストーリー>から解放されたということだ。だからデュークは観覧車からのジャンプを成功させられたし、ギャビーは迷子を助けに行くことができた。

ギャビーギャビーがボニーと出会う予定だった場所であるメリーゴーランドへ向かう直前、迷子の女の子の存在に気づいだシーンで背景に写っている光り輝く看板は「Take a Chance」。おそらく宝くじの屋台か何かなのだろうが、まさに文字通り自分からチャンスを掴みに行く瞬間であることを無言のうちにはっきり示してくれている。

ウッディはボイスボックスを譲ったことで、そしてバズに「ボニーは大丈夫だ」と言われたことで、そしてジェシーにバッジを譲ったことで、アンディがウッディに設定した「ずっと君のそばにいてくれる」という3作目の最後でボニーに語りかけた「ストーリー」から解放され「freedom」になったのだ。

そしてウッディは、不特定多数の子どもたちに遊ばれる:不特定多数の「ストーリー」の中で生きながら、さらに自分で自分に与えた「他のおもちゃを助ける」という役割を担いながら「個人として」生きている。

 

今までは、1作目のバズや2作目のウッディで示されたように<初期設定のストーリー>から解放されて、<ひとりの子どもの作るストーリー>の中で生きることが幸せだとされてきたが、ボーピープが出てきたことで、さらにそこから一歩進めて、特定の子どもの「ストーリー」自体からも解放され、いろんな「ストーリー」の中に身を置くことで、そして誰かから与えられる「役割」を演じるのではなく自分自身で「役割」を定義して行くことによって無限の可能性を試していけるということになった。

 

「ストーリー」から解放されねばならない理由は、どのストーリーにも「予定調和:established harmony」が想定されているからだ。
ストーリーから解放されるということは、他人から「役:role」を与えられなくなるということ、また「予定調和を迎えようとすること、迎えるだろうと想定すること」から解放されることであり、そのためには自らアクションを起こし外界へ出て行く、「窓から飛び出す:jumping out the window」するしかないのである。そうしなければ チャンスにすら気付けない。そしてその上で自分から 「チャンスを掴み:take a chance」に行かねばならない。たとえそれが上手く行く保証がなくても。

 

ダッキーが炎を吹きとバニーが目からレーザーを出せるのはなぜか?:誰でも「To Infinity and Beyond」無限の彼方へ向かえる

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ダッキーとバニーは、4作目で登場する新キャラのうち唯一アンティークトイでないおもちゃたちだ。彼らは射的の景品として3年間同じ屋台につられていたらしいが、射的の景品という安物であるため、パッケージもなければ、<初期設定のストーリー>もない。また子どもに遊ばれたことがないので、<誰かのストーリー>の中に置かれたことすらない。

だから彼らは、自分で<設定>を与え<ストーリー>を作り出せるのだ。

空想・妄想シーンがフルCGで再現される(もともとフルCGのアニメーションなので、このように書くのも変な話なのだが笑)のは、3作目の冒頭のアンディの空想する世界でのストーリーのシーンと、4作目でダッキーとバニーがアンティークショップの店主マーガレットを襲う妄想シーンと、射的屋に対する復讐を妄想するシーンだけだ。(※この点についての訂正を下に赤字で追記)
映画で示されている限りで言えば、彼らはアンディの他で唯一フルCGでの妄想ができるペアなのだ。

彼らを縛るストーリーは何もない。
だから彼らは自分の想像に従って、どんな「役:role」だって演じられる。

それは誰でも一緒で、自分自身が身を置く「ストーリー」から解放されさえすれば、自分が想像できるものには何にでもなれる、というメッセージでもある。

だからウッディはいまようやく、本当に to infinity and beyond 無限の彼方へ向かう準備が整ったのだ。

 


ちょうど2万字を超えたようです。長い記事になりましたが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。 

 

 

※ 追記(2019/08/04時点)

Twitterで @PixarWorld_net さんからご指摘をいただきました。

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こちらの方のおっしゃる通り、「Party Saurus Rex(レックスはお風呂の王様)」においてボニーはお風呂で遊んでいるときに展開する妄想ストーリーがアンディのそれと同様に再現されていました。 そして、このシーンこそが「唯一ボニーの妄想ストーリーが展開される瞬間」でした。つまりこのシーンはボニーがアンディ同様のイマジネーションでおもちゃたちと遊んでいることを表現のスタイルで記号的に象徴している唯一のシーンと捉えることもできそうです。シリーズを通しながらの分析といいつつ、大事な点を見落としていたことに気づかせていただきありがとうございました!

どちらにしろ、このような妄想は人間の子どもだけがするもので、おもちゃたちがそれを自分でしているわけではないという点は変わらないため上記の分析にさほど大きな影響はもたらしません。おもちゃの中でそれをするのはダッキーとバニーだけです。

 

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