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トイストーリー4について「ヴィラン」と「カーズ」をヒントに考えてみた:オモチャの幸せ・生きる意義

はじめに

この記事では私がふせったーでツイートした妄想ツイートについて詳しく補足説明します。

この記事では、「ウッディ」、「ボー」、「ギャビーギャビー」の三者が置かれた状況から、基本的に三者の関係性のみで展開を推測するため「バズ」や「フォーキー」たちには焦点を置いていません。

1)三者について現時点で判明していることを整理した上で、

2)これまで「トイストーリーシリーズ」で描かれた「幸せ」と「ヴィラン

3)ウッディとボーがそれぞれ考える「オモチャの生きる意義」について整理しつつ、

4)カーズシリーズで描かれた「障がい」と「世代交代」をヒントにしながら

トイストーリー4における「ヴィラン」の扱い方、ひいては「ウッディ」と「ギャビーギャビー」の迎える結末について予想します。

 

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なお、私が参照しているのは、すでに各種メディアで公開されているキャストや制作関係者インタビュー、予告編の映像のみで、いわゆる「Spoilers:ネタバレ」的なものは読んでいません。しかし、実際の展開と本当にかぶる部分が出てくる可能性も否めないのでネタバレに全く触れたくない方にはこれ以上スクロールすることはオススメできません。

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1)ウッディ、ボー、ギャビーギャビーについて現時点で判明していること

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

ウッディ

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アンディのおもちゃ、特に「お気に入り」で「(オモチャ視点では)リーダー」としての役割を果たし、第二の人生としてボニーのおもちゃとして生きることを選択したが、ボニーの部屋の秩序においては、ウッディはもはやリーダーシップを取ることは求められていない。

それでもウッディはボニーをアンディとして見てしまいアンディのように振舞って欲しいと思っていたり、またボニーの部屋でもみんなをリードしようとするため、ボニーのおもちゃたちのリーダー的存在であるドーリーに煙たがられている。

 

ボー

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もともとアンディの妹の所有していたランプの傍らの置き人形だったが、モリーはアンディほどおもちゃに対する愛着はなく、成長するとすぐにボーを手放してしまう。

ボーは同じ持ち主の元に永遠にいることはできないことを悟り、納得した上でアンディの家を去ることを受け入れる。

「助け」にきたウッディに対し、一緒に次の持ち主の元へ行くことを提案するも、すぐにアンディが探しにきてしまったため、ウッディは十分に考えて選択する間も無くボーは連れて行かれ、アンディの元に残ることになる。

ボーは、その後手荒に扱われたりした上で、アンティークショップに売られることになるが、数年棚の上で放置された後に、自ら外の世界へ飛び出すことを選択する。

持ち主のそばにいるというおもちゃとしての役割ではなく、特定の持ち主のものにならず、自由な身として生きながら、持ち主を失ったおもちゃたち(Lost Toys)をなぐさめたり彼らに自由な身としての生きがいを伝える場を作っている。

 

ギャビーギャビー

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ウッディとほぼ同時期(1950年代)に作られたプルストリング(紐を引っ張ると喋る)のトーキング人形。

音声ボックスが壊れていて怖い声しか出ないため、子どもに遊んでもらえず、

60年間もの間アンティークショップの棚の上で忘れられ埃をかぶっている。

自分を直すことにできる音声ボックスを手に入れられれば、自分も誰かに欲しがってもらえて、遊んでもらえるチャンスが来ると信じており、ウッディの音声ボックスを狙う。

 

 

2)誰かの持ち物として愛されること=「幸せ」:でも本当にそのカタチだけ?

これまで描かれてきた「幸せ」について考えるために、トイストーリーシリーズに登場するオモチャのヴィランを二人取り上げる。

 

プロスペクター:スティンキー・ピート

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2作目のプロスペクターは、ギャビーギャビーと非常に近い境遇である。
彼は、ウッディたちと同じシリーズで発売されるも売れ残り、ディスカウントされても売れ残り続け、子どもに遊ばれることはなく、箱に入ったまま。さらに、コレクターズアイテムとしてもウッディやジェシーと揃わないと価値がないほどに扱われ、博物館で「永遠の命」を得ることだけに希望を見出していた。
気に入られて購入されることがなかったという経験から、子どもの持ち物になるなんてきっと良いことであるはずない、という思考になるのか、鼻から愛されることを諦めており、特定の持ち主に遊んでもらっても最終的には飽きられ捨てられるだろうという視点を持つ。

 

ロッツォ・ハグベア

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3作目のロッツォは、デイジーのお気に入りだったにもかかわらず、置き去りにされた後、新しい別個体のロッツォで置き換えられてしまったため、いずれ持ち主に飽きられたり、置き去りにされるし、置き換え可能であり、おもちゃは本質的に「ゴミ(trash)」であると考えている。そのため毎年新しい子どもたちが入ってくるデイケアというオモチャにとっての天国で「永遠の命」を得ることに希望を見出し、階級を作り出し低い階級のおもちゃに幼児の相手をさせることで、自分が幼児に破壊されないようにしつつも、子どもたちを相手するオモチャがいなくならないような仕組みを作り、デイケアを恐怖で支配していた。

 

この二人のヴィランは、それぞれ本人が望んでいるかは別として、何らかの形で持ち主の元へ届けられてきた。
陰謀が失敗したプロスペクターは、強制的に初めての持ち主の元へ届けられる。

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ロッツォも、最終的には偶発的に拾われ、子どもではないものの、その人なりに大切にしてくれる、愛着を持ってくれる持ち主に出会うことができた。

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このように、プロスペクターもロッツォも、「新しい持ち主の元へ届けられる」という描かれ方をされることで、「消されるヴィラン」よりはある程度「救済措置」が加えられていた。
しかしこれまでのシリーズでは、それが彼らにとって「幸せ」につながったかどうかは描かれなかった。

その点、飽きられ手放された後、「新しい持ち主の元での幸せな生活を送る」というモデルは、ジェシーを通して描かれてきた。

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そして3作目ではウッディ自身が自分の判断で、アンディからさらに次の持ち主の元へオモチャみんなで行くことを選択する。

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つまるところこれまでは、「すべてのオモチャにとって幸せ」=「誰かの持ち物になって寄り添い、愛され続けること」とされ、ヴィランだろうとなんだろうと、基本的にこの幸せが何らかの形で与えられてきたことになっていた。

 

そこに疑問を投げかけるのがボーである。

4作目の冒頭では、どうやらボーがあまりオモチャに愛着のないアンディの妹によって手放されるシーンがフラッシュバックとして描かれるようだが、ボーはこれまでの全てのオモチャたちと異なり、飽きられること、手放されることを恐怖だと感じていないようだ。むしろそれは当たり前のこととして受け入れているようである。

いずれ飽きられるなら、自分から外の世界に出て、持ち主がいることを前提としない自由な個人としての人生を謳歌するという選択さえ取っていることが明らかになる。

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

 

 

3)ウッディとボーがそれぞれ考える「オモチャの生きる意義」

ここでオモチャたち、特にウッディが考えていたオモチャの生きる意義とボーのそれとを対比してみる。

 

ウッディが考えるオモチャの生きる意義(「ウッディ的幸せ」とする)

「ひとりの子どもの持ち物として所有され、その子のために必ずそばにいてあげて、尽くすこと」

ボーが考えるオモチャの生きる意義(「ボー的幸せ」とする)

「子どもは毎日オモチャをなくす、手放す。誰かの持ち物として尽くすのではなく、ひとりの自由な個人として人生を謳歌する」

→だからボーは、アンティークショップで埃をかぶっているのではなく、自ら外の世界へ飛び出した。

 

ヴィランは「ウッディ的幸せ」に囚われている

この2つを対比するとこれまでのヴィランもその考え方にある種囚われていることが浮かび上がる。

プロスペクターは、持ち主が出来て愛される希望が見出せなかったために、「永遠の命」を得ることを望んだ。

ロッツォは、持ち主に取り替えられる恐怖を味わったために、「永遠の命」を得ることを望んだ。

逆に言えば2人とも本当は子どもに愛されたかった、誰かに所有されてそばにいたいという、ウッディ的な幸せを求めていた、と考えられる。

その点でボーの生き方は、これまでのトイストーリーではほぼ全く持ち出されなかった新しいものなのである。

では、ギャビーギャビーはこの2つの考え方のどちらに当てはまるだろうか。

 

 

4)ギャビーギャビーの「生きづらさ」と「恵まれていた」ウッディ

製造時の不良で音声ボックスに欠陥があり可愛い声が出ないために、子どもに欲しがられない、愛されないと思っており、その不良品の音声ボックスさえ取り替えられれば自分は誰かに必要とされ遊んでもらえると思っている。その音声ボックスが手に入るまでアンティークショップから出ることなく待ち続けること60年。

同じアンティークショップで売られながらも、自ら外の世界へ飛び出し自由な個人として生きることを選んだボーとは、非常に対照的である。

ギャビーギャビーは先ほどの二つで言えば、「ウッディ的幸せ」を理想としていて自ら外へ踏み出すことはない。なぜならそれは彼女が誰かに気に入られる、選んでもらえるはずがないと思っているからだろう。この点はプロスペクターがずっと箱の中にいたのと近しい。

プロスペクターとの最大の違いは、ギャビーギャビーが愛されない、持ち主に手にしてもらえない、遊んでもらえない理由が、製造時からの欠陥にあること、少なくとも本人がそう考えていることだ。

この「生まれながら」に声が「正常に」出ないという設定は、先天的な「障がい」と見ることもできそうだ。

ウッディは、「正常に機能」し(「健常」)、子どもからものすごく愛され、大事にされてきた。さらにプレミア人形としてのものすごい価値もありながら(特権)、オモチャとしてひとりの子どものそばにいることを選び、さらに2人目の子どもの元へと渡った。加えて、オモチャたちのなかでも「リーダー」として信頼されている。

ギャビーギャビーからすれば、「羨ましい」のひと言では済まないほどに「恵まれて」いる。

 

 

5)「カーズ」シリーズが積み残したこと:「障がい」と「本当の引退」

ここで一度視点を大きくしてみる。

「障がい」について取り扱ったピクサー作品というとファインディング・ドリーが挙げられそうだが、今回私はむしろカーズ2を想起した。

一作目がジョン・ラセター監督作品であるという共通点を持つ、カーズシリーズを引き合いに出しながらトイストーリーシリーズ最新作のヒントを探ってみる。

 

カーズ2のヴィラン:欠陥車「Lemons(吹替:ペッパーたち)」

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カーズシリーズの2作目では、欠陥を抱えた不良品の車たち「Lemons(吹替:ペッパーたち)」(「障がい」を持った人たち)を、世間から必要とされず、ずさんな扱いを受けた結果ひねくれ陰謀をもって世界を脅かす「悪の組織」として描き、最終的に救済せずに「倒して」しまった。

 

※カーズ2において一面的なヴィランズに追いやり救済措置がなかったことが指摘されたことを受けてそれがある程度妥当とも見られる背景を説明したクルマに詳しい方のブログがあったので貼っておきます。

ameblo.jp

私の論調ではこの逆になってるように見えますがそれはあくまで彼らを「障がい」を抱える人のメタファーとしてみるという視点を置いているからであることは断っておきます。

 

カーズ3の「世代交代」:マックィーンの人生の選択

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3作目では、マックィーンがレーサーとしての老いを感じ、自分に残されたほぼ最後のチャンスを、放っておいたら回ってこない「新たな世代の『女性』アスリートのタマゴにチャンスを渡す」という機会にすることを選択し、訓練の過程で伝えたノウハウで彼女を優勝に導いた。(女性であることでチャンスが回ってきにくいことは、クルーズやルイーズの口を通して映画の中でも言及されており、過度にジェンダーを騒ぎ立てているつもりはない。)

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しかしその優勝は、「2人のもの」とされマックィーンは、ピストンカップでの出場ナンバーこそ譲ったものの、本人の口では「レースをやめる訳ではない」と言う。
第二の人生としてコーチ、クルーチーフという生き方を選択しながらも、勝てなくともレースはするというどっちも選んだ形にも見える。
老いてはいるので勝つことはできないかもしれないが走るための何か(例えばエンジンなど)を完全に失ったわけではない。

 

6)ギャビーギャビーは「ヴィラン」で終わるか、「新たなる希望」となるか

カーズの積み残しとして先にあげたのは二つ。

  1. 「欠陥」(「障がい」)をもって生まれた人たち(車たち)を、周縁に追いやられた結果「悪事」に走った「悪者」と描いてしまったこと。
  2. 世代交代と言えど、1つしかなかった生きる意義(レース)を2つ(レースとコーチング)にすることで、新しい生き方を見つけたようだが、結局1つ目の生きる意義を完全に捨てていない。
    (逆に言えば、もっとシビアな、取り返しのつかない世代交代、すなわちはじめに持っていた生きる意義を完全に失うという結末を描き得るということ。)

加えて

  1.  ディズニー作品の大きなトレンドとしてある視点からは「ヴィラン」とされていた(されかねない)人も視点を変えることで相対化されるという流れ(「マレフィセント」のマレフィセント、「アナと雪の女王」のエルサなど)
  2. そもそも「ヴィラン」的に振舞っていたのは、ある状況にあったからで誰かの行動で状況が変わればその人ももはや「ヴィラン」ではなくなり、固定的な「ヴィラン」など存在しないという流れ(「モアナ」のテフィティ/テカー、「シュガー・ラッシュ:オンライン」のラルフなど)

という大きな流れを考慮すると、トイストーリー4では「欠陥」が理由で愛されない(と思っている)ギャビーギャビーが、自分の人生逆転のためにウッディの音声ボックスを一方的に奪おうとする「ヴィラン」として、一面的に描かれることはまず無いと言ってよいだろう。ではどうなるか。

 

起こり得るギャビーギャビーの結末

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まず大きく分けて2つ

A) 持ち主が見つかるパターン(ウッディ的幸せ)

B) 持ち主には見つからないけど自由な個人として外の世界へ出て生きる(ボー的幸せ)

そして両者の中でも欠陥の処理の仕方が何パターンかありそうだ

  • A-1) 欠陥を持ちながらも愛してくれる持ち主が見つかる
  • A-2) 欠陥を直すことで愛してくれる持ち主が見つかる
  • B-1) 欠陥を持ちながらも愛してくれる持ち主を見つけに自分から外の世界へ出て行
  • B-2) 欠陥を直すことで愛してくれる持ち主を見つけに自分から外の世界へ出て行く

ウッディの選択=ギャビーギャビーの未来

ここで重要なのは、欠陥を直すことができるのはおそらくウッディの音声ボックスと交換することしか選択肢がなさそうだということ。
なぜなら50年代のプルストリング人形でウッディほどにコンディションが良いものはないと2作目でアルも言っているし、使えるものがあったとしたらギャビーギャビーがこの60年間のうちにアンティークショップで見つけてすでに交換していると思われるからだ。
つまりギャビーギャビーの結末がどうなるかはウッディの結末がどうなるかと背中合わせというわけだ。

あるいはギャビーギャビーの考え方が変わることで、もともと憧れていた「ウッディ的幸せ」を手に入れることを諦め、「ボー的幸せ」を目指すマインドになる可能性もある。

しかし、トイストーリーという話がウッディの物語であることを考えると、ウッディがマックィーンのように、これまでどれだけその人が頑張ってもチャンスが回ってこなかった人にチャンスを渡すという展開も大いにあり得る。

仮にウッディがギャビーギャビーに音声ボックスを譲るなら、それはマックィーンがクルーズに渡した「ゼッケン番号」ではなく、エンジンそのものであるとも言える。
とはいえ、機能する音声ボックスを失うことは、すなわち「死」ではない。人間が心臓を失うのとは意味が異なる。

まず、トイストーリーのおもちゃたちは、人間に聞こえる「トーキング人形としての声」と「オモチャ達同士で会話するための声」の2つの「声」を持っている。

仮に音声ボックスを失うなら、このうち前者を失うことになる。それはすなわち遊べるオモチャとしての価値が限りなくゼロに近づくことを意味する。もちろん腹話術的に声を当てることで遊ぶことはできるだろうが。

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ちなみにギャビーギャビーの取り巻きが腹話術人形のベンソンらであることは、この「声を失う」ことを意識させる設定であると考えられる。また、ウッディがもともと腹話術人形として企画されていたにも関わらず、それをわざわざトーキングのプルストリング人形にしたという過程をふまえると、ウッディが「声」を持っていたことが重要だったということも浮かび上がってくる気がする。

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六本木ヒルズで開催中「ピクサーのひみつ展」展示より

つまり、ウッディがギャビーギャビーに音声ボックスを譲るということは、「遊んでもらえるオモチャ」として生きるチャンスを譲ることであり、それは同時にウッディが「ボー的幸せ」を受け入れて、持ち主の元にいることではなくボーのように自由な個人としての残りの人生を送ることを選択することである。

 

しかし一方で、安直にギャビーギャビーが「音声ボックスを変えたから」という理由で子どもに欲しがられ、遊ばれるようになる、という展開にしてしまうことにはリスクもある。
それは、「障がい」や「欠陥」「機能不全」とみなされているものを「直す(治す)」ことで全てが解決する、という風に描くことになってしまうからである。
また、そのような「機能不全」は果たして必ずしも「直す(治す)」必要があるものなのだろうか。それを直す(治す)(=「正す」)ことよりも、重要なことはそれぞれの個々のあり方を受容するマインドセットや、巡り合いの方かもしれない。
となると、先ほど私があげた展開可能性としての4つの候補はどれもありえなくはなさそうである。

ウッディの成長と、ヴィランズ化しない描き方、おもちゃたちにとっての幸せのあり方の多様さ、を踏まえてピクサーのストーリーチームがどのような未来をギャビーギャビーとウッディに与えるのか、楽しみで眠れなくなってくる。

 

おわりに

あくまで今出ている情報からの妄想であり、かなり私の希望のような部分を入れながらメモ的につらつら書きました。
果たして実際の映画ではどうなっているか、公開を楽しみに待ちたいと思います!