westergaard 作品分析

映画、ミュージカル、音楽、自分が好きなものを分析して語ります。

ピクサー集大成としての『バズ・ライトイヤー』:乗り越えるべき「父」は****の顔をしている

はじめに

北米での公開から2週間待たされてようやく日本公開となった『バズ・ライトイヤー』(原題は LIGHTYEAR )。

早速ネタバレ有りでレビューしますので、未視聴の方で内容を知りたくない方は読まないようご注意ください。

米国ではトップガンの続編を始めとする大作に押されて、興行成績が振るわないということですが、批評家からの評価はそこそこ高く、実際見てみるまでどんなものかわからないなあと不安に思いながら初日に劇場に行ってまいりました。

 

「劇中劇」という設定の整合性

本作は「この映画はアンディが1995年に見てバズ・ライトイヤーのおもちゃを欲しくなるきっかけとなった映画です」という旨のテロップで幕を開けます。

各種媒体でも説明されている通り、この映画『バズ・ライトイヤー』は、アンディがいる世界で、アンディがいる時間軸の「1995年」に上映された彼らから見ると恐らく「実写映画」としてのSF作品だったという設定。つまりアンディと同じ世界にいる「クリス・エヴァンズの声をした役者さん」が「架空の宇宙飛行士キャラ:バズ・ライトイヤー」を演じている映画で、そのバズを再現したアクションフィギュアが『トイ・ストーリー』シリーズで私たちが見てきたバズ・ライトイヤーだったということです。

 

このことはある程度の整合性をもって説明できるようになっています。『トイ・ストーリー2』で、オモチャたちが近くの街の玩具店「アルズ・トイ・バーン」を訪れるシーンがあります。そこでは大ヒット映画のオモチャとしてバズ・ライトイヤーのオモチャの在庫が大量に並んだゾーンが紹介されます。

その時のツアー・ガイド・バービー(声はアリエルのジョディ・ベンソン)の台詞は以下の通り

"And this is the Buzz Lightyear aisle.
 Back in 1995, shortsighted retailers did not order enough dolls to meet demand."

(ここはバズ・ライトイヤーのレーンです。1995年当時、見通しの悪い小売業者は十分な在庫を仕入れなかったため、需要に見合った供給ができませんでした。)

この『トイ・ストーリー2』製作時点では、1995年に『バズ・ライトイヤー』という映画があったという設定は明言されていないのであくまで、現実世界における『トイ・ストーリー』公開年としての1995年をメタ的に言ったネタ(なんなら実際に在庫切れさせた小売店への公式からの「小言」)だったわけですが、この台詞を本作『バズ・ライトイヤー』の設定を踏まえて解釈し直すならば、アンディの生きている世界で1995年からこのアクションフィギュアが大人気だったということで説明が付きます。

まず、劇中劇が作品内に存在することはよくあるわけですが、劇中劇を一つのスピンオフ作品としてやってしまうということがかなり異常性を感じますし、オモチャが先にあってその玩具の原作がこちらですという設定自体はなかなかワクワクさせられるものがあります。

トイ・ストーリーシリーズが技術的に行き着いた先

とはいえ、技術的に見れば、これはある意味当然の帰結でもあるわけです。トイ・ストーリーシリーズの作品は「3部作」で完結していたと思われたが、実は3でだした結論「最高の遊び手」から「最高の遊び手」への受け継ぎの循環だけでは、「全てのおもちゃは救われない」し、「最高の遊び手」が必ずしもあらゆるところにいるわけではないし、その「最高の遊び手」とおもわれた人ですら成長とともに趣向は変化するのだという問題がありました。そのことに向き合って、より多くのオモチャたちが「よりよく」暮らせるようになるためにはどうしたら良いのかを、最高の遊び手を持った「特権的な経験をしてきた」主人公、ウッディが考え直す話をやったのが『トイ・ストーリー4』でした。

そもそもトイ・ストーリーピクサー最初の作品となった理由は1995年当時のCG技術では、まだ人間を自然に描写するだけのCG技術が十分に活用しやすい状況になく、見た目がツルッとしていても違和感がないオモチャを選んだという経緯がありました。

しかし『アーロと少年』での自然描写や、『ソウルフルワールド』などでの人間の描写を経て、世界最高のCG技術を持つピクサーはもはやオモチャではなく人間やそれを取り巻く世界を、この地球上で最も最高峰の芸術作品として写実的に描写できるようになってきたわけです。つまり、もうオモチャをやらなくてもいい、人間のドラマを十分に描けるようになったならそっちをやろうという選択になるのもある種、納得がいきます。

 

劇中劇であることがもたらす問題

さて、そんな技術的なことはこのくらいにして。この映画が劇中劇であり、しかも時代が1995年に公開された映画であるということは、厄介な問題を引き起こします。まずCGが2022年クオリティすぎるという点については、これが「アンディたちからみたら実写映画だ」ということで片付きますが、我々の現実においての「映画作品としての評価」は難しくなるわけです。

本来この映画はピクサーの最新作として現実世界の2022年の映画として見なければなりません。しかし、アンディの世界における1995年の映画として設定されているということも明言されてしまう以上、そのことが脳内で変なノイズになってしまうのです。

アンディの生きている世界と我々の生きている世界はどのくらいいろいろなことが共通しているのか、あるいはしていないのか?そのあたりはハッキリすべてが分かるわけではありませんが、この『バズ・ライトイヤー』で描かれる物語はガッツリ2017年のハリウッド版 #MeToo や Time'sUp 、2019年以降のBLMを踏まえたキャラクター配置やメッセージになっています。それに、実際にこの映画が2022年の現在において10数カ国/地域において上映禁止されているという事実も無視できません。つまり2022年の価値観を踏まえて2022年の作品としてつくられているにも関わらず、1995年の映画であるという設定を言われることによって、本作への見方が何重にもフレームが重なっていてどの視点で見たらしっくりくるのかがはっきりしないという状況が生まれています。

www.techarp.com

「楽しければ何でもいいじゃん」という意見もある意味もっともなのですが、これは視聴者が設定しているのではなく、作って公開している側がこの複雑さをあえて持ち込んでしまっているのが非常に厄介です。

強いて言うならば、最初の「アンデイが1995年に云々」というテロップをなくして、トイ・ストーリーシリーズとの関係性を観客に想像させる程度に留めておいたほうがこういったややこしいむずがゆさは生じなかったのではないかとすら思います。

 

地味に?玉突き事故で被害を被った「アルおじさん」(=ジョン・ラセター

ややこしい話はさておき、一番被害を被ったのは、この映画に登場していない『トイ・ストーリー』シリーズのキャラクターでしょう。そう。『トイ・ストーリー2』のヴィラン、アルズ・トイ・バーンのオーナー、アルおじさんです。

なぜか?

アンディの生きている世界では、この映画がヒットしていたということが、我々の生きている世界では2022年に「後付設定」されました。そして『トイ・ストーリー』にでてきたオモチャの中にはこの『バズ・ライトイヤー』の作品のキャラからは「バズ・ライトイヤー」しかでてきていなかったわけです。

しかし『バズ・ライトイヤー』では、2022年の映画として当然のように、バズの仕事の上司としての黒人女性でレズビアンの「アリーシャ・ホーソーン」やその孫の「イジーホーソーン」、年配女性の「ダービー・スティール」に見た目もキャラもそのまんまタイカ・ワイティティニュージーランド出身)の「モー・モリソン」など、多様なバックグラウンドを持つキャラクターが重要なキャラとして多数登場しています。何なら、主要キャラで白人男性はバズくらいなわけです。

そしてこれが、アンディの世界で1995年に公開され1999年になっても人気のある作品であったというならば、本来おもちゃ屋には、バズだけではなくイジーやアリーシャ、ダービーやモーなどのキャラのアクションフィギュアがあって然るべきなわけです。

しかし、それは見当たりません。

現実的な意味で言えば、そんなキャラの設定は1999年の『トイ・ストーリー2』製作時にはなかったから当然ですし、当時のハリウッド的にはあるいはピクサー的には非白人のキャラを当たり前のように出すことはしていませんでしたから当然です。

でもこの「後付設定」が加わったことによって、「そういった多様なバックグラウンドを持つキャラクターのオモチャを全く入荷していなかった」ことになったアルおじさんは、ただでさえヴィランだったのに「人種・性差別主義者」だったという設定が後付されたことになったわけです。

ちなみにアルおじさんのキャラ造形のモデルになったのは、皆さんご存知、2017年 #metoo の流れの中で長年のセクハラを告発されて翌年ディズニー全体から手を引き退場した「触れちゃダメノーノー」な、ジョン・ラセター氏ご本人なわけです。なんという皮肉でしょう。

結果としてこうなったのか、あるいは半分くらい意図してこうなったのかは不明ですが、どちらにしてもピクサーが過去の自分達の作品について自省的になっていることは間違いありません。

(*ジョン・ラセター関連で言うならば、『バズ・ライトイヤー』公開に際して、Disney+で配信されたドキュメンタリー「無限の彼方へ(Beyond Infinity)」では、ジョン・ラセターの言及はゼロで、惟一登場するシーンではピクサーの女性社員にベタベタと手を触れています。)

 

ikyosuke.hatenablog.com

 

ラセターの亡霊

前節ではあえて「ネタ的に」ラセターのことを引っ張ってきたが、コレは深刻な問題です。ピクサーにとっても、長年のファンにとっても、ラセターの亡霊は未だ大きな影響力を持っており、それを意識せずに製作をしたり鑑賞をしたりすることができないでいるからです。さらにやっかいなことは、彼がウォルトのようにすでに亡くなってしまっているわけではないということでしょう。

本来であれば、『バズ・ライトイヤー』のようなスピンオフ映画であればクレジットの中に、「ジョン・ラセターによるトイ・ストーリーに基づいて制作された」旨などが記載されるはずです。しかし現在のディズニー社やピクサースタジオは徹底してジョン・ラセターについての言及をしないことにしています。もちろん世界中の子ども達にむけてつくられ、親たちに「安心して」提供できるものを作っていた「クリーンな」企業のクリエイティブのトップが一大スキャンダルを巻き起こした以上、それをなかったことにしたいのは当然のことでしょう。

しかし、ライトイヤーという作品が「過去の失敗に囚われすぎるな」「過去の失敗をなかったことにしようと思ってどんだけ努力しても意味がない」「今を生きろ」というメッセージを核においた作品なだけに、ラセターという存在や、ラセターとともに歩んできたピクサーの過去というものが亡霊のように制作陣と視聴者の間にどうしても立ち現れてきてしまうというのが皮肉なものです。

何より本作で主人公バズが退治する相手は「ザーグ」=「未来のバズ」です。つまり自分の考え方ややり方を疑わずに、同じやり方でやり続けた成れの果てとしての自分、それこそが乗り越えなければならない相手としてでてくるのです。

もともとバズ・ライトイヤーというキャラクターの造形自体が若き頃のラセターの顔をモデルにデザインされているだけに、ザーグの中からでてきた年取ったバズはまさしくラセターのように見える顔をしているわけです。ピクサーの監督たちが今乗り越えなければならない「父のような存在」というのがまさにラセターの顔をしているというのは当然でしょう。

企業的な都合としてラセターの名前を出したり、ラセターの過去について直接言及できないからこそ、逆にこの作品のテーマに「過去の失敗との向き合い方」を据え、「乗り越えなければならないものは、自分たちが変化しなかったらなり得た未来の姿」を設定することで、間接的にピクサー社自身の自己批判、反省を示してきた、ほぼ自伝のような作品になっているのです。

第一作目のトイ・ストーリー以来、ピクサーの映画というのは基本的に、監督にとって「パーソナルな(個人的な)」話にすることに徹底してこだわってきたことは有名であり、その流れの上で考えれば当然のことでしょう。次節では、今作『バズ・ライトイヤー』が過去のピクサー作品の総括としてどのように機能しているかについて見ることにする。

 

カールじいさんの空飛ぶ家』『モンスターズ・ユニバーシティ』『カーズ3』『インクレディブル2』『トイ・ストーリー4』『ソウルフルワールド』の先にあるもの

さて、本作の提示したメッセージは、ある種、ピクサーの一旦の集大成として捉えることができます。ポイントは2つです。

1)「エリート」と「(エリートが)役立たず(だと捉えている人)」のバディ/チームもの

まず話の構造としては、ピクサーが一作目の『トイ・ストーリー』(1995)から、『ファインディング・ニモ』 (2003)、『カールじいさんの空飛ぶ家』(2009)、『モンスターズ・ユニバーシティ』(2013)、『インサイド・ヘッド』(2015)、『カーズ/クロスロード』(2017)に至るまで徹底してやってきた構造を採用しています。主人公と、(主人公から見ると)「役立たず」に見える人とがバディとなって、主人公一人でやったらすぐにできること(のはず)なのに「役立たず」の方のせいで足を引っ張らられてトラブルに巻き込まれるという展開です。

『ライトイヤー』ではこの展開を開始数分でやってしまいます。それはバズが、新人と行動するのを嫌がるという設定に始まり、彼の助けを断り独りでできると思って突き進んだことで1200人の乗組員全てを危険にさらしてしまう大失敗をすることになるのです。物語はこの失敗から始まるのです。

そして、その先はバズという「エリート」とイジーら「役立たず」たちでチームを組む展開が描かれますが、これは完全に『モンスターズ・ユニバーシティ』にサリーとウーズマ・カッパ(OK)の面々という組み合わせと同じです。

これらのバディものチームものは、『インサイド・ヘッド』や『モンスターズ・ユニバーシティ』の展開がわかりやすいように、「役立たず」のように見えたのは、主人公側の設定の問題であり、相手がどのように考えて動いているのか、相手に何を伝えたらうまくいくのかを考えさえすれば、それぞれがお互いに補い合ってより大きなことを成し遂げられるんだというメッセージに帰結します。これに関してはまったくここに書いた通りであり、また何度繰り返してもそれ以上に発展することはなく、『バズ・ライトイヤー』でも同じメッセージが温存されます。

また、『ファインディング・ニモ』のマーリンがクラッシュから学ぶ子を信じるということや『カーズ/クロスロード』でマックィーンがクルーズの可能性に気づくことや、『トイ・ストーリー4』でウッディがフォーキーの可能性に気づくことなどに描かれる、足手まといで世話してあげないといけない対象ではなく、ほんの少しのサポートで十分に可能性を開花させる次世代なのだというメッセージもまた、バズとイジーの関係性に投影されています。

 

2)「夢」「自分の目標」「失敗しないこと」にこだわりすぎて目の前で失うものに気づけない

バズは自らの判断ミスと失敗によって1200人の乗組員全てを危険な惑星に足止めさせてしまいます。彼は、「自分のせいでみんなに迷惑をかける失敗をした」だから「自分がみんなのために失敗を取り戻すためのミッションを成功させなければ」というロジックに縛られることになります。これはあくまでみんなのためにやっていたはずなのですが、「ウラシマ効果」を伴うミッションを何度も繰り返すことによって、バズだけ時間が進まず、他の人たちは時間が経ってその惑星での人生に慣れ始めてしまいます。

バズにとってわずか4分間のミッションが10数回繰り返されるうちに、バズの相棒であり上司であったアリーシャは、結婚し、子どもができて、孫ができて亡くなってしまう。このモンタージュシーンは、バズ目線で見たら会うたびにどんどんライフステージを進めていくアリーシャを見ている様子を観客が疑似体験できるという意味でも秀逸なわけですが、既視感を感じるのは『カールじいさんの空飛ぶ家』の冒頭モンタージュのせいでしょう。

www.youtube.com

 

こちらの場合は、バズとは違ってカールも一緒が年をとっているのですが、カールとしては「エリーと一緒にパラダイスの滝へ冒険しに行く」という夢がかなわないと本当の人生は始まらないともい込んでいたために彼的には 「時間が止まっている」用に感じていたということが、本編を通して明らかにされます。そして、彼はエリーが元気なうちに夢を叶えてあげられなかったために自分を責めて、他人との関わりを拒絶する「頑固じじい」になってしまいます。しかし彼は最終的に、エリーが実は日常生活こそを「冒険」として楽しんでいたことを知って、出会った少年ラッセルと「今」を生きることを選択します。

この『カールじいさんの空飛ぶ家』を作った監督は、『モンスターズインク』で初めて監督を努め、『インサイド・ヘッド』『ソウルフルワールド』を送り出し、現在はラセターのチーフ・クリエイティブ・オフィサー(CCO)のポジションを引き継ぎスタジオのクリエイティブトップとなったピート・ドクターです。

youtu.be

彼がCCOを引き継いでから自分で監督を努めた作品『ソウルフルワールド』では、この『カールじいさんの空飛ぶ家』で描かれたテーマに更に深く切り込みました。プロのジャズピアニストになることを夢見るジョーは音楽教師をしていながらも、夢がかなわないと自分の人生が始まらないと思い、日常生活をおろそかにしていたが、臨死体験における「22番」との冒険を通して、その日常生活の中にこそ「人生のきらめき」があると気づく話でした。

トイ・ストーリー』シリーズの場合は、この流れを4作品通して行ってきたという歴史がある。たった独りの持ち主の子どもとの絆、信頼関係が全てで、その子どもの持ち物たちが協力しあって尽くすという価値観こそが、生きがいであるという価値観だったウッディは、3作目までは様々な状況変化に見舞われながらもその信念を貫き通しましたが、ついにそれが機能しなくなるのが『トイ・ストーリー4』になるわけです。

ikyosuke.hatenablog.com

トイ・ストーリー』では3作目まではなんだかんだ運良くウッディは自分のポリシーを曲げずに来られましたが、『トイ・ストーリー4』では「抗えない状況変化で苦労し続けるてるのは、それ自分の選択だよね?いつでも別の選択肢あるけど?」という価値観をボー・ピープによって提示されて、別の選択をするという過程が描かれました。

トイ・ストーリーの場合は人間の子どもが大人に成長していくのに、オモチャたちは成長しないという設定(もちろん老朽化はするが)によって成り立っていたこの「取り残される設定」は、『ライトイヤー』ではSFであることをうまく活用した「ウラシマ効果」で再現してきたわけです。

しかも今回の『ライトイヤー』が特別なのは、4年毎にときが進んでいくということ、そしてさらにそのときのすすめるという選択は、バズ自身が毎回決めて能動的に時間を進めているということです。一気に時間が経ってしまったのではなく、バズが能動的に選択した結果として取り残されているというのが巧妙です。つまり、ウッディが「ひとりの子どものために尽くす」というのを「その実験もいつでも(自分が納得した時であれば)やめられたよね?」というのが、ライトイヤーではバズとアリーシャの関係性の中で描かれていくのです。

「自分のせいでみんなに迷惑を掛ける失敗をした」だから「みんなのために自分が成功しないといけない」というロジックでバズは自分自身を縛っていたわけですが、結局の所いつの間にか周りの人たちは惑星での生活に順応しており、脱出することが絶対ではなくなっていたのです。だからこそ、ソックスのような弱小コンピュータが何十年もかけてディープ・ラーニングして計算した結果を、どの科学者も算出していなかったわけです。これは直接は言及されませんが、結局あの世界の科学者たちは、脱出するための研究にリソースを注がなかったということなのでしょう。

「みんなのために自分が成功しないといけない」という「人のため」のロジックでやっていたはずのバズは、いつのまにか「自分の失敗をなかったことにするため」だけに固執していたのです。このことは、「ザーグ=未来のバズの成れの果て」との対峙によって明らかにされ、ザーグ化したバズがまだ大事にしているアリーシャとの写真をみることによってハッと気づくわけです。

アリーシャが一番望んでいたのは、彼がした失敗を修正するためのミッションを成功させることではなく、バズと一緒に仕事のパートナーとしての人生をともにすることだったのだ、と。これはまさにカールが映画終盤でエリーの想いに気づくことや、『トイ・ストーリー4』のウッディがボー・ピープの生き方の魅力に、『カーズ/クロスロード』のライトニング・マックィーンがドックのレーサー以外の生き方における幸せに気づくのと同じです。

 

「夢」や「目標」を叶えること、一つの信念を貫き通すことは美しく聞こえますが、それを叶える、貫く以外を「失敗」と捉えてしまうため、同時に「失敗しないこと」にこだわることになってしまいます。永遠のループがないからこそ、そこから脱さなくてはならないという『トイ・ストーリー3』までのループから『トイ・ストーリー4』で脱したように、ピート・ドクター的な価値観でバズをバズ自身の呪縛から開放し、自分や他人の失敗、過去を受け止めて、今を生きることを学ばせるたびに出させることができた『バズ・ライトイヤー』はまさに、新体制ピクサーが、自分たちのスタジオの原点となった『トイ・ストーリー』のキャラ、バズ・ライトイヤーを再解釈する試みだったとも言えるわけです。

 

オッサンが過去の自分の間違いを正したいのは自己満だよね?

それよりも今を生きようよ。

そのためには、自分の失敗ももちろん、他人の失敗にも寛容になりながら、でもその失敗をできるだけしないように協力しつつ、失敗してしまったらある程度取り返しつつ、ポジティヴに今できる選択肢を考えてやっていこうよ。

という優しい映画だなと思いました。

同時に、

自分のやり方にこだわりすぎたり、過去のあやまちを認められず、そのやり方を改められないでいると、これからの可能性すら奪って消し去ってしまう「ザーグ」になってしまうのだ。

ということも伝えてくれています。

ピクサーの作品の変遷と、ピート・ドクター体制に変わってからの最も大切なものとして作品に据えているフィロソフィーを、真正面からド直球に描いた集大成としての作品、それが『バズ・ライトイヤー』だったと見ることは、決して言いすぎなことではないと考えます。

 

 

 

 

ikyosuke.hatenablog.com

ikyosuke.hatenablog.com

ikyosuke.hatenablog.com

ikyosuke.hatenablog.com