westergaard 作品分析

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ネタバレあり ディズニー【ミラベルと魔法だらけの家】初見の雑感

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はじめに

ゆっくり分析したり考察してる時間がいまないので、今日は短めに。ただ、初見の感想は二度と帰ってこないので、少しだけ書き留めておきたいと思い、帰宅(厳密には家に戻ってないけど)後すぐに書き始めました。

ネタバレありです。

 

端的に先に申し上げましょう。

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの長編アニメーション映画として、記念すべき60作品目にふさわしい出来だったといえるでしょう。
子どもたちにもあいされるであろう魅力的でカラフルな画作り。
キャッチーでラテンのスピリットの宿った、ライミングの気持ち良いリン・マニュエル・ミランダの音楽と歌詞。

ストーリーとしても移民1世が抱える複雑な心境と、2世・3世との世代の違いによる心境のズレを捉えつつ、ピクサーや昨今のディズニー作品に疑問を投げかけながら、描きこぼされてきた部分をしっかりつつみこむ、いろいろなことに真摯に向き合った作品でした。

日本では残念ながらあまり商業的な期待がされていないようですが(なんなら配給をしているウォルト・ディズニー・ジャパン自体すらも)、作品としては(もちろん完璧ではないものの)素晴らしいできですので、是非劇場に足を運ぶべき一本だとつよくおすすめできます。

 

それではもう少しだけ詳しく。雑感を。

『モアナ』以来 5年ぶりの新作ミュージカル 

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの作品としては、コロナ禍の大惨事になった『ラーヤと龍の王国/Raya and the Last Dragon』 以来の公開となった『ミラベルと魔法だらけの家/ENCANTO』。

ミュージカルとしてはコロナ直前の『アナと雪の女王2/FROZEN II』以来ですが、続編をカウントしなければその前のミュージカルアニメーション映画は2016年の『モアナと伝説の海/MOANA』以来ですし、作曲のリン・マニュエル・ミランダもWDAS的には『モアナ』以来のカムバックです。

Tangled(2010), Winnie the Pooh(2011), Wreck-It Ralph(2012), Frozen(2013), Big Hero 6(2014), Zootopia(2016), Moana(2016), Ralph Breaks the Internet(2018), Frozen II(2019), Raya and the Last Dragon(2021), Encanto(2021)と、2作に1本ほどのペースでミュージカルがきていて、結果としてはTangledのみアラン・メンケンが、 PoohとFrozenシリーズをロペス夫妻が、それ以外をミランダ氏が担当している感じになっています。

 

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プリンセスの文脈でみると?

特に、広義の「プリンセス」を扱う作品だけ取り出すと

50作品目のTangled(2010)はメンケンの作曲だったことからもわかるように、まさに第二黄金期のプリンセスたち(アリエル以降)の総集編(の初3DCG版)プリンセスでした。
その後は、Wreck-It Ralph(2012)、Frozen、Ralph2と(1)意識的にメタ的に従来のプリンセス像を脱構築する作品や、
(2)ムーランやポカホンタスで十分なし得なかった部分を「やり直し」ている Moana、Raya、Frozen2などといった作品が続いています。

本作、Encantoはその両方の流れを統合させたものとして位置づけられるでしょう。

制作陣をみてもそれは当然です。本作の監督はバイロン・ハワードとジャレド・ブッシュで、ハワードはボルト、ラプンツェルズートピアの監督。ブッシュはズートピアの共同監督と脚本を担当しています。ラプンツェルから10作品目にあたりますし、監督がズートピアなどを通していろいろ試したことを完全新作のプリンセスものに反映したといっても良いかも知れません。

 

ミラベルは決して身分的には「お姫様」では有りませんし、舞台は王国でも有りません。時代もハッキリ描いてはいません。そしてなにより「おとぎばなしフェアリーテイル」ではありません。もちろん、魔法は出てきますし、ミュージカルでありますから(90年代の)「ディズニーらしさ」満載に感じる作品になってもいます。

とはいえ、コロンビアが舞台で、50年前に何らかの侵略・侵攻でミラベルの祖母が故郷を追われたところから話が始まります。
フェアリーテイルではない、等身大な人間たちのドラマであり、これはどちらかというとピクサーがこれまで得意としてきたエリアでした。

しかしストーリーやキャラ造形(外見も内面も)をみれば明らかなように、明らかにプリンセスの文脈に据えられる作品です。

ルッキズム的でこんな言い方はしたくないのですが、WDAS作品の主人公としては、もっともメリダに近いみためのキャラクターでしょう。
彼女の「赤髪」とはわけが違いますが、それでも顔の形やカーリーな髪の毛、メリダには有りませんでしたがメガネをかけている見た目というのは明らかに意図的にこれまでなかったものを作り出そうとしている意図を感じさせます。

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そして女性版マウイやラルフのような怪力姉さんルイーサと、ラテン系ラプンツェルのような花咲姉さんのイザベラは、どちらも非常に戯画的で、どうなってるんだろうか?と正直ポスターを見ていた段階では非常に不安でした。

しかしこれらの戯画化は意図的に行われているもので、物語の中で脱構築されることが前提となったあえてのステレオタイプ的なキャラ造形(これは外見の話)だったことは、映画を見れば明らかですね。もちろんこれがズートピアで行われた各キャラの描かれ方と類似していることは言うまでもありません。

ルイーサは、長女としてできないことはないという扱いを受ける重圧こそが彼女の怪力に反映されていて、また完璧に華を添える女性としての美人な次女としてしか見られないイザベラももっと多様なことにチャレンジしたいと思っているその様子はまさに従来型プリンセスの文脈を継いでいます。それまでのプリンセスの総決算として作られたラプンツェルに衣装のカラースキームや造形がにているのは偶然ではないでしょう。

ピクサーブラッド・バードのインクレディブルズでは、家族内の特徴、おちつきのない少年、ひっぱりだこで柔軟なお母さんなどステレオタイプをそのままビジュアルとスーパーパワーに反映していましたが、本作ではむしろ他社からの期待がビジュアルとスーパーパワーに反映されているというところが、アルシュのアンチテーゼになっていたようにも感じます。

二人が「自分らしくいられない」と感じる「おしつけられた期待」に答える姿は、まさにエルサそのもので、特に魔法をもっているがゆえに頼りにされすぎて過労になっている姿は、スピンオフの絵本描かれていたエルサ以外のなにでもありません。(まあそれらのスピンオフ本の話はおそらく多くの人達には届いていないでしょうが)

少なくともアナ雪1の最後にしめされたエルサの「居場所」は、公共事業としてのスケートリンクをつくる労働でしたから、まさにルイーサはあの先エルサが魔法の力を「利用」されつづけたらどうなるかの未来として描かれているようにも読めました。

イザベラについては、劇中描かれたとおりですので、特に詳細に言及はしませんが、まさしく実は自由を求める「プリンセス」です。その彼女に気づきをもたらすのは男性ではなく、力を持たない妹のミラベルであるというところは、劇中で既にネタとしていじられていたようにまさしくエルサとアナの関係性を重ねている部分とも言えるでしょう。(もちろんエルサは結婚を強いられませんが)

両者のキャラそれぞれに書かれていた、期待される完璧な女性を求められることに苦しむミュージカルナンバーは、ミランダのデビュー作品「イン・ザ・ハイツ」をみている人には馴染み深いものだったはずです。いかにもミランダの作品に登場するキャラらしさが出ていたと感じたひとも少なくないでしょう。

 

ピクサーリメンバー・ミーと比較すると?

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本作は中央アメリカ、ラテンアメリカを舞台にした作品の一つであることは誰にでも分かるように描かれており、当然作る側も見る側もメキシコの死者の日を描いたピクサーの『リメンバー・ミー/COCO』を意識しないわけが有りません。
ストーリー的にも、家族の中の世代を超えた確執というテーマでドンピシャにかぶって、いや、かぶせてきています。

 

ここで詳しく書きませんが、リン・マニュエル・ミランダはプエルトリコにルーツを持ちながらニューヨークで生まれ育った自身の立場性を色濃く反映させた作品を手がけてきており、その中では移民の子孫として生きる人の世代間の想いのぶつかり合いや、居場所についての問題提起が数多くなされています。このあたりは特に最近映画にもなった『イン・ザ・ハイツ』を参照してください。

彼とディズニーの関わりとしては『モアナ』があったわけですが、当然彼は自分自身のルーツを反映させた作品を作りたかったでしょうから、ENCANTOの制作過程にも(アナ雪のロペス夫妻並みに)色濃く影響を及ぼしていることが予想されます。このあたりはまだ舞台裏が公開されていないので不明ですが、楽しみですね。

特に、COCOと比較した際に見えてくることは、人間関係の修復の描き方の丁寧さです。もちろん本作も、橋田壽賀子のドラマのようにころっと考えが変わったように見えてしまうシーンもなくもないので完璧では有りませんが、少なくともすべての悪の根源であるデラクルスを登場させてやっつけることですべて解決してしまったCOCOよりは誠実さの感じられれる展開でした。

これまでヴィランに頼りすぎてきたWDASは、2016年の56作品目のモアナを皮切りに、シュガー・ラッシュ:オンラインとラーヤにおいても明確なヴィランはおかずに来ていました。

アナ雪2でも、既に死んでいる祖父がヴィランとして描かれたわけで実際に登場人物の中に悪意を持った人が敵対するというよりはむしろ、現在の自分達の選択を考えさせられるという葛藤の根源として描かれたまでだったので新しかったとは言えます。

ラーヤでは、「病気」とされるものが「悪」になっていましたが、もちろん人ではないものの怪物のようなものが存在しているという設定はあるいみでヴィランを想起させるものでした。

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その点、本作ENCANTOには、まったくそのようなヴィランらしさを感じさせるものが登場しません。もちろん、おばあちゃんたちを故郷から追いやった征服者たちは当然悪役ですが、ミラベルの物語にはほとんど関係しません。

主人公ミラベルと対立するのは、家族を守るためといってプレッシャーを与え続けていたおばあちゃん自身です。しかし彼女もふつうに視聴していてヴィランらしさを感じることはなく、ただただ人間ドラマとして現実味のある対立であると感じられる描き方でした。

なんなら、み終わってこの感想を書き始めるまでヴィランのVの字も頭をよぎらないくらいに「自然に」ヴィランという概念を消し去っていたのではないかと思います。

 

ピクサーは、自分自身の選択の結果ありえた姿、もう一人の自分として、極悪人のヴィランを「サプライズヴィラン」として登場させることがいつしか「定番」となってしまいました。

当初は、世界征服を狙う極悪人や、主人公の命を狙う魔女 のような非現実的な、意図を持った絶対悪を描く「ディズニー作品」に対するアンチテーゼのように新しさを見せていたのでしょうが、むしろその描き方すらチープに感じられるようになってきた現代。

本作で描かれたミラベルと祖母の対立は、COCOでミゲルと音楽禁止のおばあちゃんの対立を、ミゲルが起こした音楽の軌跡とその軌跡を阻んでいた絶対悪のサプライズヴィラン、デラクルスのせいということで解決させてしまった雑な描き方に対する問題提起になっていて非常に良質だと思いました。

 

また、「魔法が戻ってしまうエンド」は、2016年のモアナのマウイや、ラプンツェル・ザ・シリーズの件以来いろいろ思うところはあるのですが、今回のは非常に納得の行くエンディングだったように感じました。

 

ラーヤより遥かにビジュアルがキャッチーでカラフルですし、ミュージカルなので、子どもたちの評価も高いのではないか?と期待されますし、この良質な60作品目が日本で記憶の闇に葬られることのないよう祈りつつ、閉じたいと思います。

 

冒頭で手短にといったのに、結局5000字書いちゃいました笑

 

あ、ちなみにアナ雪ネタのうちの一つは、英語でないと存在しない部分があるので、ぜひ吹き替えでなく原語版での鑑賞をおすすめします。

(吹き替えの方のサントラも聞いたところ、それもそれで非常によかったですが!)

 

追記:アルマおばあちゃんについてふせったーで書いたので こちらにも追記しておきます。

https://twitter.com/westergaard2319/status/1464597129729830912?s=20

本作の監督バイロン・ハワードは、ラプンツェルの監督もしていた。
イザベラがラプンツェル脱構築なのはみんな言ってる通りなんだけど、
アルマおばあちゃんは、マザーゴーテルのやり直しだと思うんよね。

マザーゴーテルは、自分の手にした「ギフト」である若返りの「魔法の花」としての機能のために、ラプンツェルを所有物として扱っていた。彼女に対して人権の尊重はないから、当然彼女の望みどおりに行動させたり、自由にさせることはない。

アルマおばあちゃんは、自分の家族を守るために、子どもたちに「ギフト」としての魔法を授けられた。
アルマおばあちゃんはマザーゴーテルとおなじで自分自身にスーパーパワーがあるわけではない。
家族を守るためであった「ギフト=魔法」なのに、そこが逆転して、ギフト(それがあることで権威になるから)のために家族がいるという状態になってしまう。
当然ギフトを持っていないミラベルのような人を大事にしないし、権威を傷付けかねないブルーノを追放したりする。
同時にパワーを持っている人たち(=家族であるルイーサやイザベラたち)の「自由」を奪い、ツール化/所有物化してしまっている。
まさしくゴーテルだ。ゴーテルがラプンツェルを「愛した」のは、そのツールとしての価値のためであって、アルマおばあちゃんの家族に対する「愛」もそれだった。
アルマおばあちゃんとミラベルの「ハグ」が、アンサーとして示されたのはそれこそが「真実の愛のハグ」。
アナ雪で「異性愛のキス=真実の愛」と思わせて、「じゃなく姉妹愛でした」っていう展開をパロって、「姉妹愛のハグ=真実の愛」と思わせて、「じゃなくておばあちゃんの子どもたちへの"真実の愛"」こそがアンサーでしたっていう二重の構造なのだろうと。

また、パワーのために、目的と手段が逆転してしまうというのはまさしく、愛する人を守るために力を求めたアナキンが、力のために愛する人たちを苦しめてしまっているダースベイダーになってしまう展開と重なる。ダースベイダーは結局目の前で自分の息子が苦しんでいるのを見てそれに気づきライトサイドに戻ってくる。
アルマおばあちゃんも、目の前で苦しんでいるミラベルをみて「ライトサイド」に戻ってくる。

なのでENCANTOは、アルマおばあちゃんこそが物語の主人公で、ダース・ゴーテルからライトサイドへ帰還する話だ。(雑だけど結構本気)

 

 

 

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