westergaard 作品分析

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PRIDE月間に公開された『あの夏のルカ』で描かれる「カミングアウト」と「パッシング」

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はじめに

結果としてPRIDE月間に公開されることになった『LUCA(あの夏のルカ)』。

あまり積極的にLGBTQだけの話として打ち出してはいないし、そうであるところが良いと思うのですが、陸に上がったら人間と何ら変わりない見た目になれる「シーモンスター」という設定がとてもよく普遍化できたメタファーだと思ったので少し書きます。

(なおネタバレありです。)

 

大前提として、この作品は決して、セクシュアルオリエンテーション性的指向)やジェンダーアイデンティティ性自認)の話だけを描いた話ではありません。ですが、あるシーンがあるシーンがものすごくわたしにはこのトピックを扱っているかのように見えました。

 

設定として、人間たちは ルカたちのことを「シーモンスター」と呼び恐れており、逆にルカたちは人間のことを「ランドモンスター」と呼び恐れています。これは『Raya and the Last Dragon(ラーヤと龍の王国)』でも描かれたテーマですが、相手のことを見たことがない、知らないのに、はじめから恐怖の対象で駆逐されるべき対象だと捉えているところからスタートします。

ただし、ルカたちは陸に上がって、水にさえ触らなければ人間と全く同じ外見になれるという性質を持っているので、陸の世界へいながら、シーモンスターであることがバレないようにしながら生活をするという、いつバレるかわからない環境でドキドキしながら冒険をするという設定になっているわけです。

 

バレると信頼を失う属性:「スティグマ

この作品において「シーモンスター」であることは、人間の世界で生きる上で「スティグマ(stigma)」であるとして描かれます。

スティグマというのはアーヴィング・ゴフマンという人が論じた概念ですが、

元々は、ギリシアの時代に奴隷や犯罪者に焼き付けられた印のことを指していましたが、のちに「それをもつことで、人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広範にわたる属性」として意味づけられるようになりました。
つまり、「人々が期待しているものとは違う望ましくない特異性」「バレるとまずい特性」ということになります。
FROZENのエルサの場合であれば「氷の魔法」がそれに当たったわけです。
一般に、スティグマがある人のことを「完全な人間でない」と思い込んでいる場合が多く、それに基づいて差別が行われるわけです。この場合「モンスター認定される」わけです。

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スティグマがバレないようにする:「パッシング」

 スティグマを持っている人は、そのスティグマが「パッと見ではわからない」「見えない」ものであれば、「パッシング(passing)」できます。

「パッシング」とは、自分がその特徴を持っていないかのように隠すこと、「常人(とされる人)」と同じであるように振る舞うこと、です。

しかし「パッシング」し続けることは簡単ではありません。
ルカやアルベルトのシーモンスターの場合は水に濡れた瞬間、暴露されてしまうわけで、陸にいる間、つまり「越境している間」は、いつ崩壊するかわからない生活を送っているという点で、非常に大きな不安を背負っているわけです。
Frozenで、手袋をしていた時のエルサもそうでしたね。

 

またこれはエルサの方では描かれなかったのですが、「従来所属していたカテゴリーに対して向けられた、攻撃的な言動に反対できない時、に自分の不実と自己嫌悪の感情に悩むことがある」、とゴフマンは論じています。

 

例えば、「ゲイを馬鹿にする話をしている同僚/同級生」がいるとき、自分がゲイであってもそれがバレないようにするために、一緒になって馬鹿にする、といった具合です。

まさしく、「シーモンスター」について、「ランドモンスター」である人間たちが言及するたびに、ルカ達がしていた反応がこれに当たるわけです。

 

強制的にカミングアウトさせようとすることは暴力

 アルベルトは、中盤ルカが、ジュリアと一緒に学校にいきたい、もっと世界のことを知りたいと思うようになった時に、かつて父親から見捨てられたのと同じように自分が再び見捨てられることを恐れ、無理矢理シーモンスターであることをカミングアウトさせようとします。

 

ルカは、自分がジュリアと一緒に学校に行くためには、まだシーモンスターであるというスティグマをパッシングし続けたいわけなので、ここでカミングアウトを強制されることは避けたいわけです。
アルベルトは、ルカにその夢を諦めさせるために自ら水に飛び込んでカミングアウトします。ジュリアは当然、シーモンスターに対して恐怖の目を向けるわけですが、ルカはここでアルベルトに対して指をさし咄嗟に「シーモンスターだ!」と叫んでしまいます。

正しくこれは、ルカが自分がそのスティグマを持っていないことを示し、ジュリア達と同じ「人間」であるかのように振る舞うために、「パッシング」するためにした行動です。
アルベルトから見ればこれは裏切りですが、ここでカミングアウトすれば槍を投げられるということまで描かれるわけです。

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ジュリアはその後家に帰ってから、ルカに水をかけます。これも強制的にカミングアウトさせているので一種の暴力です。このシーンでは、ルカ、アルベルト、ジュリアの3人は全員「間違ったこと」をするわけです。

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 しかし、アルベルトが最悪な状態でのカミングアウトしたことをきっかけに物語が動き出し、結果としてはシーモンスターであることはスティグマで無くなっていくという方向に向かいます。(これは必ずしも肯定されるべきではありませんが、この作品ではそう描かれます。)

 

コミュニティの「受け入れ」

最終的には、このコミュニティでパワーを持っていたジュリアの父が、ルカやアルベルトを「シーモンスターである」という属性だけでなく、「ルカ」や「アルベルト」という個人として見たことで、そしてそれをコミュニティへ提示したことで、受け入れられるようになるわけです。

このジュリアの父は生まれつき右手がないという「障がい」を持っていたことから、「人と違うこと」というのを理解していたのだろうという部分は、あまり深く描かれませんがそれまでの描写でサラッと描かれており端折られます。この辺りもこの作品があまり「説教臭くない」と感じる一つの側面かなと思われます。

さらに、このルカやアルベルト達に対するコミュニティの反応を見て、両親達もカミングアウトした他、ずっとこの人間の世界で暮らしながらもパッシングしてきた、ずっとジェラートを食べている2人のおばさんシーモンスターもカミングアウトします。

その様子を見て、警察が持っていた「シーモンスターを殺した人への賞金」の紙を、これまで物語に一切関わっていなかった一般市民が破り捨てることも、少しずつ社会が変わっていくことを象徴的に描いているように捉えられます。

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さらに作品はご都合主義で終わらせずに、もともと陸の世界と海の世界を行き来していたおばあちゃんがバシッとメッセージをまとめてくれます。

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「生きていけば受け入れてくれない人は必ずいる。でも受け入れてくれる人もいる。」

この一言で、これまで描かれてきたことが一気に普遍化されるわけです。

これは誰に対してでも当てはまるもので、別に人種とか性に関することとかそれ以外全てのことを包括しているのだよということを一言で言ってくれます。

 

 

おわりに

と、ここまで書いてわかるように、「シーモンスターである」というスティグマは、何かがなければ表に出ることはないどんな特徴にでも置き換えられるように描かれているわけなのです。

 

ただ、これは「人種」のように可視性を伴うものでは機能しにくいようにも見えるし、

「国籍」とか「宗教」も、可視性を伴うものが多いので、私としてはどうしても「性的指向」や「性自認」の話に見えてしまいました。

特に、アルベルトがカミングアウトさせようとしたり、ルカがパッシングするあのシーンについてはものすごくそれに見えたという話です。

(「人種」に関してはそもそもが「身体的特徴をもとにした人間集団の区分」であり、その可視性からパッシングすることは非常に難しいです。もちろん周りの集団との関係性にもよりますが。なお、「人種」は奴隷制度を正当化するために17世紀に発明された科学的に見える集団区分であり、現代の分子生物学的には存在が否定されています。「人種」は生物学的実態のないものです。ベルトラン・ジョルダン(2008)などを参照のこと。)

 

また、ジェラートを食べている二人のおばさん達というのも見た目がどうしても二人とも女性だったのもありそういうように見せる一つの小さな仕掛けにもなっていたのかな?というようにも思えます。

また、アルベルトがルカをジュリアに取られてしまう、というような描写も、別にセクシュアルなあるいはロマンス的な部分は一才エクスプリシットに描かれてはいませんが、性別の設定からそのように見えてもおかしくないように仕込まれているようにも見えました。

もちろんこれは、そういうふうにも読めるように描かれているというだけで、それだけとして描かれているわけではないことはハッキリことわっておきます。

 

ということで、ピクサー作品史上、もっとも普通な世界観で、シーモンスターという仕掛けだけで、ものすごく狭い舞台で、最小限のキャラクター数で描いた、とても普通な話でしたが、気せずして同年公開のウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの『ラーヤ』とほとんど同じテーマを扱った作品になっていて驚きました。

また、個人的には「アリエル」の展開が大っ嫌いなので(好きな方、すみません)、ピクサーがリトルマーメイドを描き直したら、こうなるよというのを見せてくれたという意味でも非常に印象的な作品でした。
陸に憧れて人間のモノを集めている描写や、フォークの使い方がわからない描写など、明らかにアリエルの話を前提にしながら、全く違う形で仕上げてきているところが、ディズニーに対して常にアンチテーゼを打ち出し続けるピクサーらしさとしてまだ残っている感じが出ていて興味深いです。

 

さて、撮影の始まっている、実写『リトルマーメイド』はどうしてくるのか?余計に気になります。