はじめに
前回の記事では、ミュージカル『The Prom』のベースとなった、偽プロム事件の背景や、ブロードウェイでこの事件を取り上げた作品を上演したことの意義を紹介した。
2本目のこちらの記事では、差別的なダークユーモアがどこまで翻訳できるのか?ということで、日本にこの作品を持ってきたときにわかりづらくなる部分や、少々問題となる部分について解説していく。
(全部で3本立てのうちの2本目にすることにしたので、完結はしませんが笑)
第1弾はコチラ!⬇︎⬇︎⬇︎
リベラル 対 コンサバティヴ の対立構造だが…
前回の記事に書いたように、この作品の中ではブロードウェイとインディアナの対立構造で話が進められていく。
A)リベラルで人権問題に敏感で、同性愛に寛容な都市部のブロードウェイ
B)コンサバティヴでキリスト教を大切にしていて、同性愛に不寛容な田舎のインディアナ
この対立構造に加えて、ストーリー全体を通したメッセージを見ると、一見リベラルな価値観をコンサバティヴな人たちに教えにいくことで、差別を受けているエマを救うという流れに見えてしまいがち、というかそのつもりで鑑賞してしまいがちだが、ブロードウェイサイドの人間たちもまた非常に差別的であるものとして描かれている。
偏見にまみれたリベラル側の人たち
リベラル側の人たちの代表としてこのストーリーを推し進めていくのが、D.D.アレンとバリー・グリックマン、そしてトレント・オリバーとアンジーらだ。かれらが、自分たちの名誉挽回のためのアクティヴィズムを起こす対象としてエマの事件を見つけた直後に歌うナンバーが、「Changing Lives (Reprise)」。
Changing Lives (Reprise)
この曲でバリーたちは、エマの受けているヘイトと戦いにいくことを歌い上げる。
We're gonna teach 'em to be more PC
奴らにもっと 政治的に正しくなるように教えにいくんだ
ここは、地球ゴージャス版では「教えに行かねば、差別!」と少々当たり障りのない感じの訳詞になっていた。もちろんここの「PC」は「Politically Correct」のことで、政治的に正しくなるよう教えると歌い上げている。しかし、彼ら自身どれほどインディアナの人たちに対する偏見が凝り固まっていることがこの曲の他の部分の歌詞に表出している。
まずは次の部分。
We're going down to where the necks are red
And lack of dentistry thrives
向かうんだ 首が赤く焼けていて 歯医者も足りていないところへ
地球ゴージャス版では、「the necks are red」の部分は訳詞には反映されていないが、この「首が赤く焼けている」というのは、いわゆる「レッドネック」のことを指している。レッドネックというのは、アメリカ南部の農村部の保守的な貧困白人層(プアホワイト)を指す表現で、差別的な意味合いを持っている。彼らは、日差しが強い南部で野外労働しているために首が焼けて赤くなっていることから「レッドネック」という呼び名がついていると言われているが、他に当てはめられる代表的なステレオタイプは以下の通り。
・南部なまりの喋り方
・歯並びが悪い(これが「歯医者も足りてない」の歌詞に反映されてる)
・保守的で共和党支持者
・人種差別的
・都市部のリベラルの人を敵対視
・ピックアップトラックや大型のアメ車
・キリスト教右派や原理主義者が多く、教会に通う
・テレビが好き
・NASCARファンが多い(NASCARの他にもモンスタートラックなどといったようなモータースポーツが好き、というのが「Acceptance Song」の会場に反映されてる)
実際に、レッドネックステレオタイプを芸風にしているコメディアンもおり、その中でも有名なのはラリー・ザ・ケーブルガイで、日本では『カーズ (2006)』のメーターの声を務めていることで知られている。もちろんそのメーターもレッドネックステレオタイプで描かれている。南部なまりで、歯並びが悪く、彼はまさに大型車のレッカー車(車の世界的には肉体労働)である。そして彼は最終的にライトニングマックィーンの親友となりレースファンになる。NASCARはカーズのマックィーンが参戦するピストンカップの基になったモータースポーツだ。
この後に続く4人が次々に言葉を発するシーンは、これでもかというくらいに差別的な印象が口にされる。
・Fist-pumping:ガッツポーズをする
・Bible-thumping:福音を説いている
・Spam-eating:スパムを食べている
・Cousin-humping:従兄弟(血縁者)と性行為する
・Cow-tipping:牛を転がす(『カーズ(2006)』に出てきたトラクター転がしの元ネタはこれ)
・Shoulder-slumping:前屈みで姿勢の悪い
・Teabagging:-----(だいぶ性的なアレなので、知りたければググってください)
・Losers and their inbred wives:負け犬たちと、近親婚の夫人たち
Cow-tippingについては、なぜか地球ゴージャス版では「牛とヤっちゃう」と訳されていたが、おそらく誤訳?で、これは「立っている牛を転がす」というアメリカ農村部の悪戯のことを指している。(もともとは、牛は立ったまま寝ているから簡単に倒せるという迷信から来ているようだが、実際にそんなことはない。)まさにこれも『カーズ』でメーターがマックィーンに教える遊び「トラクター転がし(Tractor Tipping)」に反映されている。カーズがいかに南部のステレオタイプを反映した作品かが逆説的によく伝わる記事になってしまったが笑
その他にも、Changing Lives (Reprise) の終盤では、かなり性的な話が多く挙げられているが、総じて「教養がない」「分別のつかない」ような、酷く偏見にまみれた揶揄の仕方をしていることがわかる。
この辺りが、ブロードウェイでギャグとして機能するのは、観にくるリベラルな人たちが、実際にはインディアナのような地域に住んでいる人たち全員がそうではない、とわかっていながらも、どこかでこういったステレオタイプを見聞きしていて、心のどこかしらでは少しはそうかもしれない、と思っているよね?という前提を改めてこのような歌詞で叩きつけられることで、そんな偏見バカらしいと再確認するように作られているからだ。しかし日本の文脈ではこれらがそもそも知られていないので、「ステレオタイプ」としても機能しておらず、むしろへえ、そうなの?というような形である意味で新情報として聞かされるので、何がジョークなのかわからないという状況になりかねない。この辺り、文化の翻訳の難しさが思いっきり表出している。
「dyke」・「レズ」:あえて使われている差別的な呼称をどう訳すか?
そしてこの曲の最後は、バリーが次のセリフで締めくくる。
Now let's go help that dyke!
さあ、そのダイクを助けにいこう!
この「dyke」というのはレズビアンを指す侮蔑的な呼称であり、当事者が自分について使う以外は差別用語になってしまう。
もちろんこのセリフ(歌詞)はゲイであるバリーから発せられるものであるので、許容されるという面もあるのかもしれないが、このワードチョイスはグレーだ。このセリフがグレーなのは、Netflixの映画版ではこのセリフが “Now, let’s go start the fight” に変更されていることからも明らかである。舞台よりもより多くの人が世界中で見ることが予想されるための変更であろう。
この部分、地球ゴージャスによる日本語版ではここは「レズを助けましょう!」となっていた(その後の変更については後述)。
「レズ」はレズビアンに対する侮蔑的な呼称であり、これも差別的になるため通常当事者が自分のことについて言う以外、基本的には使ってはならないワードである。
この点については、演出担当であり、このセリフを言うバリー役の岸谷五朗が、以下の記事でのインタビューにおいて、差別的な用語は差別的に訳しているとの旨を語っているが、おそらくここのセリフのことを指していると考えられる。
――岸谷さんだったら、そういった悪口にとられかねない笑いの表現をどう扱いますか。
岸谷 使いようによってはありだと思います。たとえば、レズビアンのことを「レズ」と呼ぶと、侮蔑的に捉えられる可能性があるんですね。でも、お話の流れでその必然性があって、観客もレズビアンの人も納得するのであれば、「レズ」と呼んだ方がいい。日本語でもあるじゃないですか。悪口が実は褒めているようなことは。
と、記事の下書きをして三度目の観賞(公演開始3週目)に行ったところ、なんとここのセリフが「レズビアン助けましょう」に変更されていたのだ。おそらく前述したような懸念があることから、観客なり関係者なりどこかしらから指摘が入ったのだろう。先ほどの記事によれば、もともと製作の段階から岸谷さんは当事者の人たちに台本を見せてフィードバックをもらった上で対話して決定しているというので、これまでもいろいろな監修はあった上での判断で公演を開始したのだろうが。
もちろん観劇しに来る全員が前述のような事情や、オリジナルの歌詞、台詞やその意図を把握しているわけではないので、ただ単に差別用語を使ったかのように取られてしまうことは十分にあるはずだ。作品全体としてはむしろ積極的に偏見や差別をなくしていくことに重きを置いているわけで、そこが逆効果を産まないようにやむなく変更したことはある意味懸命な判断であったかもしれない。
正直言って、私も初見を鑑賞した際にこの表現はかなり引っかかり、このナンバーが終わった直後、素直に拍手を送れなかったのは明確に覚えている。対してブロードウェイでは、「Oh! 彼はあんだけポリコレとか言ってるのに、dyke言っちゃうんだ〜おいおい!」って感じで笑うジョークになっており、それを観客が受け止められる前提で書かれており、実際に私が観劇した回の周りの観客もそこで笑っていた。こういったブロードウェイの「ダークユーモア」がどこまで日本の文脈で「ダークユーモア」として受け取ってもらえるかはかなり難しい部分だなと改めて考えさせられる変更であった。
(「ダークユーモア」に関連して、「ブラックジョーク」という言葉があるがこれはいわゆる和製英語であり、英語圏の文脈でこの言葉を使ったら、「黒人のジョーク」と捉えられトラブルになりかねないので注意。)
ブロードウェイ版を制作した人たちはどう考えている?
オリジナルキャストのバリー役のブルックス・アシュマンスカスは、上の動画内でのインタビューで次のように語っている。
このショーが美しいのは、誰のことも「ジャッジ(偏見を持って決めつける)」しないことだ。あるいは、どんなジャッジメントも茶化さないことだ。
私たちが演じる左派(リベラル)の人たちがアメリカの田舎町の人たちに対して行う決めつけも、その逆についてもそうだ。
この作品はオーディエンスに任せるんだ。それぞれが自分の課題を持っているのはもちろんだが、願わくば彼らにほんのちょっとでも光を射すことができればと。
(訳はブログ著者によるもの)
ここでどんなジャッジメントも「茶化さない」と言いつつも、実際にはそのジョークやユーモアで会場にいる観客は笑っているのである。そして明らかに笑いを取るべくして書かれた台本なのである。
この辺りが、感覚として直感的に文脈が少々異なる我々としては向き合うのが難しい部分であると言えよう。これらがジョークとして機能しているのは、そのジャッジメント自体を馬鹿にして笑っているというわけではないからである。
ミセス・グリーン役を務めたコートネイ・コリンズは、自身のキャラクターをできるだけ「party neutral」に、つまり特定の党派の代表としてだけの描き方にならないようにしていると前置きしながら次のように語っている。
私たちは、ニューヨークの(リベラルな)オーディエンスに対してパフォーマンスしてるけど、同時に中部の人たちに向けても演じてるし、いろんなところから来る人に向けて演じている。
誰が見にきても、どんな政治的立場であっても、観客は自分自身を見つめ直して、自分自身について笑って、自分自身について何かを学んで帰ることになる。
(訳はブログ著者によるもの)
この該当部分以外においても彼女は、ミセス・グリーンのキャラクターは実際に同性愛の子どもを持っていて、でも我が子が同性愛であって欲しくないと思っている母親との対話を重ねて作り上げたことを明かしている。こういった親の像は、決して必ずしもここの舞台で直接的に描かれているような聖書を理由にした考え方に基づかないものであっても当てはまるものであろう。
彼女がここで語っていたように、「笑う」のは自分自身の中にある偏見、凝り固まった考え方についてである。舞台上で行われるやりとりに自分を投影させて、自己反省としての意味を込めて笑うためのジョークであるということなのだろう。とはいえ、こういったジョークなりユーモアなりが、許容される素地があるかどうか文脈が共有されているかどうかは、状況や人を選ぶと言える。
3本目の記事へ、つづく…
今回は『The PROM』の二曲目のナンバー「Changing Lives (Reprise)」にフォーカスして、差別的なダークユーモアがどこまで翻訳できるのか、という問題を取り上げてきました。
3本目の記事では、兼ねてから取り上げたかった他のミュージカルからの引用ネタなどをナンバーごとに纏めながら、結局この作品が誰を受け手として想定している作品なのかを考えていきます。
第1弾はコチラ!⬇︎⬇︎⬇︎