はじめに
トイストーリー4公開から1ヶ月以上が経ち、私もかれこれ吹替・字幕合わせて10回鑑賞したわけだが、お気に入りのシーンの一つはウッディとボーがシャンデリアを見つめるこのシーン。
でもこのシーン、映画の他の部分と比較すると、カメラを置く位置に関して、実は不思議な点があるんです。これを読み解いて行った結果、最後のウッディの決断のシーンでウッディが本当に望んでいたことがどっちだったのかというのが映像の中の「方向」で既に示されていたことに気づいたので、この記事ではその気づきを共有したいと思います。
映画の中において描かれる「位置関係」や「方向」は、たまたまそうなっているのではなく、制作する側がそのように「選択」しています。
劇中の出来事の中でデュークカブーンは2回飛ぶ。正確にはコマーシャルと、飛べなかったトラウマになったジャンプも加えれば4回飛びます。
コマーシャル、リジャーンが発射した時、そしてアンティークショップ内でのフォーキー救出時のジャンプは右方向へのジャンプだ。対して、最後の観覧車からのジャンプは左方向へのジャンプです。
はたまた、ボーピープと再会してからウッディとボーが映る際には基本的にはどのショットでも右側にボーがくるように映されています。
映画の中において描かれる「位置関係」や「方向」は、たまたまそうなっているのではなく、ストーリーの展開と深く関係しており、映画を読み解く上では非常に重要な鍵となります。
今回の記事では、トイストーリー4という作品において、画面の中における位置関係・方向:専門用語で言う「Screen Direction: スクリーンディレクション(画面方向)」がストーリー(特にウッディの最後の決断のシーン)とどのように関係しているかについて読み解いていきます。
(もちろんこれはあくまで私の考察であってピクサーの制作チームの意図と完全に一致するものではないかもしれないが、少なくともスクリーンディレクションによって示されていることを読み解いた一つの分析としてお読みください。)
では、ここからいつもの「だ・である」調で(笑)
スクリーンディレクションによる表現手法からの分析
まずはじめに、基本事項の説明を少しだけ。
映画の製作や分析において重要な要素の一つに「Screen Direction: スクリーンディレクション」というものがある。端的に言えば、「画面スクリーンの中における方向」のこと。
特に、アクション、特に移動する時左から右へ向かうか、右から左へ向かうかというところに顕著に現れる。
ある地点から目的地へ移動する際は基本的にどのショットでも同じ方向へ向かうように映される。そのためA地点からB地点へ向かっている人を移す際に、画面左から右へ進んでいるショットが映された次に右から左へ進んでいるショットが映されることは基本的にはない。(「角を曲がった」などの様子がわかるショットが挟まれば別である。)
スクリーンディレクションを考える際には、真横から撮っていなくても(真正面からのショットではない限り)必ず左か右のどちらかへ動いていると考える。このように、ここでいう「右」と「左」は広い意味で捉えている。
この画面の中における方向を担保するために、映像を撮影・編集する世界では、一つのルールが決められている。それが「180-degree rule:180度ルール」だ。
「180-degree rule: 180度ルール」と「イマジナリーライン」
例えば、2人の会話のシーンでは、基本的に対になっている2人の間に仮想上のライン「Imaginary Line: イマジナリーライン」があると想定され、原則的にその「ライン」を超えないようにカメラが動く(切り替わる)ようになっている。
そうすることで、左にいる人は必ず左に右にいる人は必ず右にいるので視聴者が混乱しないようになっており、映像メディアに慣れた私たちは、それを自然と感じるような認識に仕上がっている。
対話している人が3者以上になったり、途中で立ち位置が変わったりするとまた複雑になるが基本的には今書いたことが原則。
またこの「イマジナリーライン」は行動する方向や、モノに向かう人(コンピュータに向かう人)、または画面に映っていない領域(オフスクリーン)の何かへの視線においても生じる。
またこの方向は、物理的な位置関係にとどまらず、考えや目的が同じ人同士は向きが揃えられたり、敵対しているもの同士が向き合うようになっていたりすることもある。そうすることで両者が同時に見えていなくても誰と誰が敵対・対立しているのか、誰と誰が同じ目的で動いているのかということがわかるように作られる。
ちなみに意図的にこのルールを破ることもある。「crossing the line」と言って、あえてその「ライン」を超えるカメラの動かし方、ショットの切り替え方をする場合だ。それは稀で、基本的にそれをやった時は「なんらかの意図がある」と考えられることになっている。(La la land のセバスチャンがピアノを弾いているシーンで彼の背中をカメラが通り過ぎた時に、彼のオリジナルソングが始まる(=彼の世界へ入り込む)という演出は非常にわかりやすい例。)
逆にいえば「意図がない限りはラインは超えない」のが映画(というか映像)撮影の基本原則である。
今回は、冒頭に示した「シャンデリアのシーン」「デュークカブーンの飛ぶ方向の変化」と「ウッディとボーの左右の位置関係」を中心に、トイストーリー4を「スクリーンディレクション」の観点から分析していく。
【1】冒頭の回想シーンでのウッディとボーの位置関係
この「9年前」のシーンでは、ウッディとボーが映るシーンではボーが左、ウッディが右という位置関係で始まるが、ボーが譲渡されることになり事態が一変するとウッディが左、ボーが右というように左右が転換する。
ボーはウッディも一緒に次の持ち主の元へ行くこと(駆け落ち?)を誘い(⑥)、ウッディもそれに応えて箱に入ろうとするが(⑦)、ウッディが消えたことに気づいたアンディが外へ飛び出してくる(⑧)。
これ以降会話はないが、2人は表情だけでお互いの考えを理解し合い(⑨,⑩)、ボーはウッディのハットと頬を触り、別れの挨拶をする(⑪)。
そのままボーの入った箱は画面右へ引っ張られ、持っていかれる。
【2】「右方向へ進む」ことは何を意味するか
(1)アンディからボニーへの引き継ぎ「左➡︎右」
この回想シーンに続いて私たちには、アンディとともに過ごした幸せな日々、そしてボニーへゆずりわたされ、ボニーとともに過ごした時間が「You've Got a Friend In Me」に乗せたモンタージュで見せられる。
この時ウッディが「左から右へ」受け渡される様子が描かれる。これは、トイストーリー3の時にも同様のシーンが少し違うフレーミングとカット割りで描かれていたが、3作目においても左から右という方向は同じであった。
冒頭回想シーンのボーピープが入れられた箱が右に、ウッディが左にいたこととも呼応し、あの時ボーは次の子どもへ譲られていったので、その位置関係とも呼応する。
(2)アンティークショップでの移動方向「左➡︎右」
フォーキーがギャビーギャビーによって誘拐された後、ボーに助けを借りてアンティークショップに戻り、店内での救出を試みるシーンが4作目の中盤の大半を占めるわけだが、その際の移動の方向は基本的に右方向である。
この救出作戦の最中にデュークが1回目のジャンプを見せるためこのジャンプは右向きで描かれます。
このジャンプはデュークとともにウッディが飛ぶことにも象徴的に表されるように、フォーキーを連れ戻し、ボニーの元へ戻るためのジャンプです。
(3)左から現れ右へ去っていくギャビーギャビー
ギャビーギャビーは初登場シーンでは、スクリーン左側からウッディに向かう形で登場する。しばらくの間、ギャビーとのバトルシーンは繰り広げられるが、ウッディとの関係でいうとウッディと2人きりになるのは終盤のボイスボックスを譲るシーンである。
そのシーンでもギャビーは左側、ウッディが右側という位置関係が保存されている。
またこのシーンでは、子供と遊ばれる幸せが、照明演出でも巧みに表現されている。
ギャビーにとって憧れの「持ち主の子どもとの幸せな日々」を過ごしてきたウッディのいる右側だけに窓からの光が当たっている。
これはちょうどキャンピングカーでのフォーキーとウッデイの関係にも呼応していて、一番遊ばれているフォーキーに最も光が当たり、次に遊ばれているバズたちには車内のサイドライトが、最も遊ばれていないウッディは最も暗い闇の中にいる。ここではチャイルドシートにフォーキー、一段高い床にバズたち、一番低いところにウッディというように高さにもそのヒエラルキーが反映されている。
ウッディは自分がどれだけ幸せな日々を送れきてたか、そしてそれがどれほどレアだったのかを実感したウッディはボイスボックスを譲ることを決意。そうしてボイスボックスを手にしたギャビーは念願のハーモニーに気づいてもらえる。
この時ギャビーはスクリーン左側の棚の方から、右側にいるハーモニーへ声を聞かせる。するとハーモニーが右から左へ近づいてきて、ギャビーを手に取る。
しかしハーモニーはギャビーを左側の箱の中に放りなげ、右へ消えていく。
続いて迷子の女の子のシーン。
この時、一行は左方向へ進んでいましたが(なぜここが左だったのかは後ほど触れる)ギャビーはふと立ち止まり右方向へ目をやり、迷子の女の子に気づく。
左から戻ってきたウッディは、さらに左にいるボーへ目配せして「change of plan(計画変更だ)」と伝え、ボールころころ大作戦によるバニーとダッキーの助けもあって、右側にいた迷子の女の子は左側に座っているギャビーに気づく。そして拾い上げ、ギャビーを助けたいという気持ちに勇気をもらった女の子は右方向へ向かい、警備員に話しかける。
おそらく警備員が他の警備員と連絡を取り迷子の女の子の家族を探している間に一行はメリーゴーランドの上に場所を移し、次のショットでは女の子が家族と合流した様子が上から見下ろされる視点で描かれる。
この時家族はほぼ真正面へ向かって進んでいくが、ギャビーの視線へ右から左へ向かっており、右へ去っていったと捉えて良さそうだ。
ここまで見てきてわかるように、
(1)ボーやウッディが「次の持ち主の元へ渡る時 」
(2)ウッディが「持ち主の元へもどるための行動(フォーキー救出)をとる時」
(3)ギャビーが「新しく見つけた持ち主へ渡る時」
「左から右」へという方向で描かれることがわかる。
総括すれば「左から右へ」というのは「1人の子どもへ尽くす方向」と考えて良さそうだ。
【3】ずっと右方向に進んでいたウッディが左方向へ折り返すのはいつか?
アンティークショップでのフォーキー救出作戦においては一貫して右方向へ進んでいたウッディ。
ギャビーにボイスボックスを受け渡し、ボニーに連れて帰ってもらえそうになるも、ハーモニーに捨てられたギャビーが気になり、再び右方向へ走る。
ギャビーの捨てられた箱に一緒に入り、「もう私のたった一回のチャンスは終わったからボイスボックスは返す」と言い絶望するギャビー。
ウッディは画面左の方向にある窓から漏れるカーニバルの光と子どもたちの声の方向へ目をやるようギャビーを促し、「子どもはたくさんいる。その1人にボニーがいる。ボニーは君が来るのを待っている。まだボニーは知らないけど。」と声をかけボニーの元へ連れて行こうとする。
「もし違ったら?」と言うギャビーに対しウッディは「そうだとしても、棚に飾られてるだけなら、その答えも確かめられないだろう?」とボーから学んだ考えでギャビーを励まします。そこへ「その通り」と現れたボーはウッディの右側へ登場。
このシーンは、私が以前書いた記事でも取り上げたように、2作目でジェシーをアンディの元へ連れて行くときの会話と重なるように作られている。その対比を通してウッディが、「アンディに対する盲信(予定調和が来るという盲信)」から解放され「何が起こるかわからない現実」を受け入れてその上でそこに向き合わないといけないという考え方に変わっていることが表される。
JESSIE: But what if Andy doesn’t like me?
ジェシー:もしアンディに好かれなかったらどうしよう?WOODY: Nonsense! Andy’ll love you!
ウッディ:そんなバカな!アンディは君のこと気に入るよ!(2)ギャビーへの口説き方
GABBY GABBY: But what if you’re wrong?
ギャビーギャビー:でももしあなたが間違ってたら?(ボニーに気に入られなかったら?)WOODY: Well, if you sit on a shelf the rest of your life . . . you'll never find out, will you?
それでも、これから一生棚の上に座っていたら…それを確かめることすらできないんじゃない?決定的に違うのは、(1)では妄信的にアンディがジェシーのことを愛すると信じ込んでいてそれが前提でジェシーを説得しているのに対し、(2)ではボニーがギャビーのことを気にいるかどうかはわからないけど、それでも行動して見なきゃ何も変わらないということを認識した上で説得しているということ。
そして後者の考え方は4作目の冒険を通してボーからインストールされたウッディにとっては新しい考え方だ。この「棚の上に座ってたら何も変わらない」というのはボーの言葉の引用である。
先に確認したジェシーの説得がそうであったように、このギャビーの説得も、ギャビーに向けているようでウッディが自分自身に言い聞かせていることと捉えることができると考えると、これはウッディ自身が『予定調和』(=「Established Harmony」=「ウッディにとってのハーモニー:すなわちアンディ)がない世界において生きて行くことを決意したことの現れと捉えられる。
だからこの次の瞬間ボー・ピープが助けに帰って来てくれて、「He's right」と言うのだ。あれはウッディがアンディから卒業した、つまりウッディが「予定調和」を前提とした認識を捨てた瞬間なのだ。
この引用部分にも書いたようにまさにギャビーにとっての「予定調和(Established Harmony)」が崩壊したこのシーンで、ウッディもそれがない世界で生きて行くための考え方を自分に言い聞かせ、そしてギャビーにも説いているのである。
ここでウッディは完全に自分のストーリー「誰かの持ち主に尽くし続けることだけがおもちゃの唯一の幸せである」から解放されている、と私は読み取る。
これ以上詳しいことは是非こちらの記事を参照してほしい。
このシーン以降、一行はギャビーを連れて左方向へ進み続ける。その途中でカブーンが左方向へ向かって大ジャンプを決める。
方向については触れていなかったが、以前の記事でも次のように書いていた。
あのジャンプは、過去の<設定>や、それによって生じたトラウマを克服できさえすれば、ボーの言葉で言えば「今の自分になれる」。そうすれば、今まで自分にできるはずがないと思っていたことさえできるようになるということである。
過去に縛られ、自分が期待していた予定調和に裏切られたことに傷ついている、ウッディやギャビーの目の前で、飛べないから生きる意味がないと思っていたカブーンが飛ぶことで、彼らに勇気を与えることになる。
この説明と、上記の「ウッディの方向転換」を踏まえれば、あの大ジャンプが、それまでの右方向へのジャンプと異なり、左方向であることの理由はこれで明白であろう。
アンティークショップ内で右方向に飛んだ時のデュークはまだ、「自分に設定されたストーリーのようにカッコよくスタントを決められなかったせいで捨てられた」という過去に囚われており、そのことがノイズとなってジャンプを失敗しかける。
しかし終盤でその10倍の大ジャンプを成功させる時は左へ向いている。「ストーリー」から解放されたことが左へ向かっていくこととして象徴的に描かれていると言える。
カブーンはそれ以降1人の子どもの持ち物となって尽くすことは描かれない。この時カブーンに続いて左方向へ渡ったおもちゃたちのうち、唯一1人の子供へ尽くす方向へ進んだのはギャビーであり、この方向は【2】に見たように「右方向」であった。
左右方向への動きはこのように描き分けられていると考えられる。
【4】ボーとウッディの位置が入れ替わる時
ボーとウッディの位置については、【1】で示したように冒頭は「ボー(左)、ウッディ(右)」からスタートし、ボーが連れて行かれうることになってから「ウッディ(左)、ボー(右)」へと転換する。
それ以降、公園での遊びのシーンで再開したショットでも、その後に茂みの陰で会話しているショットでも、メリーゴーランドの上で景色を見せてもらうショットでも、アンティークショップの中でのショットでも基本的にボーが右側という位置関係を貫いている。
照明演出も含めていうならば、最初にメリーゴーランドの上に登ったときは右にいるボー側だけ日差しが当たっており、左にいるウッディは影の中だ。
同じような演出はアンティークショップの中でジャンプの準備をする際にランチャーをもって棚の上に登っていくシーンでも描かれる。
ボーは右側で高い位置におり、ウッディは低い位置にいて影の中にいる。
そんなウッディに対して、「移動遊園地と一緒に移動して街を出るの。もっと広い世界を見てみない?」と誘うボーは、「あなたにもできる」と言い、マジックカーペットに乗せて「A Whole New World」を見せに誘うアラジンかのようにウッディに対して右手を差し伸べる。ウッディがそれを掴んで登ることで、影の中から引き上げられる。
(引き上げるという動作自体は、冒頭のRCを救うシーンでの「Operation Pull Toy(おもちゃ引き上げ作戦)」と重なるように感じる。)
そうして引き上げられたウッディは、ボーに促されて振り返ると、そこにはウッディが見たこともないような美しい光景が広がっている。
人生のほとんどの時間を子ども部屋にしかいなかったウッディにとって、シャンデリアを見るのはきっと生まれて初めてだろう。このシーンの重要なショットは幸いにも全て予告編の中で公開されていたので順番に並べてみることにする。
さて、記事の冒頭で紹介したイマジナリーラインがここで必要になる。
①②のショットにおけるイマジナリーライン は、シャンデリアと2人を結ぶ線であり、その線の片側180度以内でカメラが動かされている。
しかし続くショット③では、ウッディ越しのボーが映される。これはその直前のショットのイマジナリーラインは超えている。
続くショット④はその切り返し(リバースショット)で、ボーを見つめるウッディがボー越しに映される。
この二つのショットではイマジナリーラインがウッディとボーの間に切り替わっているとわかる。
ここのショットが面白いのは、
1)まずウッディが右側、ボーが左側となっており、これまでのウッディとボーの位置関係から考えると「例外」のショットと言えること。
2)カメラが2人の背中側に置かれていること。
ここで①、②のショットと、③、④のショットを分けて考える。
まず①と②。
先に確認したように、直前シーンではウッディとボーの間にイマジナリーラインがあるが、この時登る方向と、2人とシャンデリアを繋ぐイマジナリーラインは同一直線上にある。
この後ジャンプをするシーンでもこのイマジナリーラインは維持される。
前後のシーンにおいては進行方向に向かって右側にしかカメラはなく、反対側にカメラが回ることはない。
つづいて③、④。
シャンデリアを見上げる2人、そしてシャンデリア側から2人を見下ろす視点のショットが映された直後、ウッディ越しにボーを見つめるショットに切り替わった瞬間イマジナリーラインがウッディとボーの間に90度移行する。
この直前のショットでカメラはシャンデリア側へ回っているため、それに従うなら私が黒塗りの丸数字で示した❸、❹の位置にカメラをおけばよかったはず。
そうすれば左にウッディ、右にボーという位置を維持できたはず。さらに、顔や視線の向きはともかく、体の向き的には正面側から捉えていて自然なショットなはずである。
それでもわざわざ2人の体の裏側にカメラを回り込ませ、ウッディとボーの左右の位置を逆転させているのはなぜか、不思議に思い考えていた。
位置関係的に確実に言えるのは、背景にシャンデリアを入れられるということだが、シャンデリアを入れるためだけなら、ボーとウッディの左右の位置をこのようにする理由を完全には説明できない。
しばらく考えながら何回か鑑賞したいたが、以前の記事でも気づきを与えてくれたツイートとして紹介したアカウントだったがこちらの方のツイートがヒントとなった。
このシーンがね、ダブらせてあるんですよね。
— 田中水々 (@10Ru_a_tnk) July 30, 2019
僕の解釈だと「(当人の気づかないうちに)心が求めているもの」だと考えてます。 pic.twitter.com/x5HiyG1FlG
このシーンにおけるボーを見つめるウッディが、冒頭のフォーキー誕生シーンにおけるフォーキーを見つめるボニーのショットと呼応しているというツイートだ。
実際にこのショットを並べて見ると、背景に映り込むオフフォーカスの光のつぶつぶといい、右から左へ見つめる向きといい、対応していることがわかる。
この対応から考えるに、背中越しのショットが入ることで「ウッディが本当に望むもの」と「今やっていること:フォーキーを救ってボニーへ届けること」とが一致していないことを示していると見ることができそうだ。
ボーに教えられて、振り返った瞬間ウッディはこれまで見たこともない輝く景色に気づき、カメラが背中側に回り込んで、ウッディとボーの位置が転換する。
しかしそのまま再び振り返り元の方向へむきなおり、スクリーン右へ向かってのデュークとの大ジャンプに繋がる。
シャンデリアのある方向とは真逆の方向にジャンプするという位置関係は非常に巧妙にできている。ボーが誘っている「広い世界」の「見たこともない美しさ」の象徴である「シャンデリア」の輝きを背に向けて、「フォーキーを救ってボニーの元へ届ける」という「忠誠心」に従ったミッションが今まさに始まろうとしている、というシーンなのだから。
この、持ち主の方に向かう方向(ここではフォーキーを取り戻しに行くという方向)と逆方向に輝きがあるという構図はこれまでのシリーズでも登場した。
博物館や保育園に残る選択をすれば、「永遠の幸せ」が手に入れられたかもしれないのに、ウッディは常に忠誠心に従って最終的にはアンディの元へ戻る選択を取り続けてきた。アンディの元に戻る幸せが「有限」であることは、「永遠の幸せ」の選択肢の方が「輝いている」ことと対比される形で「影や闇」で表現されてきた。
今回のフォーキーを救うために向かう先は闇と言えるほどではないが、それでもボーが見せてくれた輝くシャンデリアのような美しい光景は背に向ける構図になっている。
これら2つの点から、カメラが2人の背後に回り、背中側の肩越しでウッディがボーを見つめるショットが選択されたのは、背景にオフフォーカスの光を入れ、ボーの見せてくれたような世界やボーと共に生きることがウッディの心から望むことであることを示すためであると考えられる。
またそれは同時に、忠誠心だけに従って選択してきたウッディが、またもう一度その選択をできる岐路に立っていることを示しているとも考えられる。
【5】ウッディの最後の決断のシーンで描かれた「方向」
さてこれまでの4つでこの話をするための準備が整いました。
【1】では冒頭にボーが去る時からボーとウッディの左右が入れ替わり、ウッディが左、ボーが右という位置関係がある程度固定されるようになったこと。
【2】では右方向に進むということが、「1人の持ち主に尽くす方向」として描かれるということ。
【3】ではウッディが「1人の持ち主に尽くすことがおもちゃとしての唯一絶対の幸せである」という「ストーリー(予定調和)=呪縛」から解放された時に、進む方向が「左➡︎右」から「右➡︎左」へ思いっきり転換するということ。
【4】ではウッディとボーの左右の位置が入れ替わるシーンで、背景に「ウッディの知らない広い世界」の象徴として「オフフォーカスの光」が輝くようにフレームインされていること。
を確認してきた。
ではここで、最後の決断のシーンを自分の覚えているショットだけ描き起こして再現してみる。
ここまで確認してきたことを反映すれば、バズたちが乗っているボニーの車がなぜ右側にあるのか、そしてボーとウッディがこのシーンでこの左右の位置に来る理由がお分かりいただけると思う。
ウッディがデュークたちに別れを言う時には背景はメリーゴーランドの屋根である。しかし羊たちへの挨拶を終えた後ボーの方へ向き直ると、背景には観覧車の光がオフフォーカスで映り込んでくる。
これはウッディが本当はボーと共に残り、世界を見て回りたいと思っていることが表現されていると捉えられる。右から左へと言う視線もここで生きて来る。
さらに、これは気付いた人も多いだろうが、冒頭のお別れのシーンともしっかり呼応している。
まず第一に、冒頭では雨の日の夜、車の下で行われたのに対し、今回は晴れの日の夜、車の上のサンシェードの上で行われる。
冒頭の回想シーンでのお別れではなかったボーがウッディに抱きつくという行動が加えられているほか、フチにかけた両手がクロースアップショットで映され、そこからチルトアップさせてウッディの言葉にならない表情を見せると言うカメラワークも完全に対応している。
さらに、仕切りを超えてボーがウッディの帽子と頬に触れるというアクションも対応している。
このアクションは、冒頭のシーンではかなり引きのワイドショットで映されるが、今回はカメラの位置がずっと近くなっており、このカメラの物理的な距離の近づきが、別れに対する2人の感情の高まりを象徴していると捉えられる。
決定的に違うのは、ボーとウッディの左右の位置が入れ替わっていること。もちろんこれは、右に向かうことが「1人の持ち主に尽くす方向」としてセットアップされてきたことを受けて、ウッディが右側にある車へ向かうと言う方向として描かれているわけだが、冒頭と呼応するシーンとして考えた時には、また少し別の要素も見え隠れする。
冒頭では、去っていったボーが右にいたことを考えると、ボーの視点で「ウッディが去っていってしまう」という見せ方にも読むことができそうだ。
続きをみる。
メリーゴーランドの屋根の上から名残惜しそうにウッディを見つめるボーを背にしながら、ウッディはサンシェードの上を渡ってバズの方へ歩いて来る。
この時、ウッディはボーの方を一度振り返る。この時にわかりやすいが振り返ったウッディの顔はカーニバルの明かりに照らされている。しかしバズの方へ向き直ったウッディの顔は完全に逆光で陰になっている。
右側にいたバズに「She will be okay. Bonnie will be okay. Listen to your inner voice.」と言われると、ウッディは光の指している方向にいるボーの方へ向き直り、左へ向かって走って行く。ボーもメリーゴーランドの屋根から飛び降り、サンシェードに降りて駆け寄って来る。抱きついてくるくると反時計回りに回る2人の後ろには同じく反時計回りで回転している観覧車が。この時の2人は先ほどのショットよりもずっとクロースアップで移されており、さらなる感情の高まりが反映されていると言える。
つづいて仲間たちとの再会を果たした後ジェシーにシェリフバッジを受け渡す方向も左から右へ、そしてバズと抱き合うウッディの後ろには右側にジェシー、そして左側にボー。
そして左側に残ったボーとウッディが右側へ向かって去って行くボニーの車に乗った仲間たちを見つめながら終わる。
この車がさって行く方向もほぼ真正面と言えるような方向で、ギャビーが持ち主と去っていった方向と非常に近い。しかしここではバズたちの視線が画面左へ向いていて、それにたいするウッディとボーの視線が右へ向いているため、ギャビーの時と同じように「右へ去って行った」と捉える。
*
ここまで分析すると、ラストのウッディの選択のシーンで
左から順にボーとウッディ、バズたちが並んでいることがいかに巧妙かがわかる。
デュークが示した象徴的な左へのジャンプ、そしてそれでも1人の子どもへ尽くすことを選び右へ進んでいくギャビー。
それらをを踏まえ、右にバズたち、左にボーがいる間でウッディが右か左かを選ぶ構図になっているのだ。
そう考えると、バズの言葉を聞いたウッディが、左にいるボーの方へ駆け寄ることが「自分の内なる声」「本当に望んでいること」に従いながら、右方向:つまり1人の子どもに尽くす方向をもう選ばなかったということを、スクリーンディレクションで示していることがお分かりいただけると思う。
またボーのいる方向に輝きがあり、バズたちが去って行く方向は闇になっているというのも、持ち主の元へ戻るということと別の人生を生きることの対比がこれまでと同じように光と闇の演出でなされており、しっかり引き継いでいる。
もちろんバズたちが不幸せなわけではなく、バズたちのように必要とされる子どもに尽くすことは「おもちゃにとって最も気高きこと」として描かれている。
その役目を終えても輝ける場所があることをボーとウッディは示してくれているという点で、バズやジェシーたちも安心して「有限の幸せ」である「闇」の方へ向かっていけるのかもしれない。
このように映画の画面の中における方向「スクリーンディレクション」もかなり理詰めで意図的に計画されていることが確認できると同時に、このようにスクリーンディレクションを通して我々に物語のヒントが与えられていることがしっかり確認できたと思う。
またスクリーンディレクションに着目するということが、映画を分析する際のヒントになるかもしれないと思い今回このように記事にしてみた
今回も最後まで読んでくださった方、お付き合いありがとうございました。
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