westergaard 作品分析

映画、ミュージカル、音楽、自分が好きなものを分析して語ります。

「ありのままで」から『ブラック・ウィドウ』へ。MCU初心者のプリンセス研究者が初日に観に行った理由。

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はじめに

このブログでマーベル・シネマティック・ユニバースMCU)の作品を扱うのは初めてだ。
MCUというのは、マーベルが展開してきたヒーローを描いたコミックを原作とした実写映画化プロジェクトで、その全ての作品が一つのユニバースの中で起きて相互に影響を与え合い、数年に一度大規模なクロスオーバー作品が制作されるというフランチャイズで、ディズニー社にとっては現在非常に重要な収益源となっているブランドの一つである。

ウォルトディズニーアニメーションスタジオや、ピクサーアニメーションスタジオの作品からディズニーに入ったわたしとしては馴染みがなく、わたしがMCUを見始めたのも2021年に入ってから全てDisney+で視聴した、という「超マーベル初心者」だ。


アベンジャーズプロジェクトが動いていたことは当然知っていたし、どの映画も批評やあらすじは見ていたので把握はしていたが興味がなかった。正直言ってバトルシーンや、「白人マッチョの男が暴れ回って世界を救う」ことに関心がなかった。これは偏見であったが。

そんなわたしがMCUを見始めた理由は、この『ブラック・ウィドウ』を映画館で見るためだった。なぜわたしがそこまでしてみたかったのか、そしてこの作品がどのような重要性を持っているのかを書かねばならないと思い、今記事を書いている。

この記事は、ぜひMCUを一切見たことがない方、かつてのわたしと同じようにアメコミ映画に距離感・拒絶感を持っている方、わたしの他で書いているプリンセスやジェンダーに関する話で関心を持っている方に向けて書きたい。(特にこの映画は単独でも十分楽しめる作りになっているので。)また映画自体の詳細なネタバレができる限りないように配慮して書く。ただしテーマ的なネタバレは含んでしまうのでご承知いただきたい。

なお「レリゴー」の話がしっかり出てくるので、Frozen勢・プリンセス勢の皆さんも、後半まで待って、読んで欲しい。笑

 

「ブラック・ウィドウ」はコロナで1年待たされた? いえ、10年です。

パンデミックで公開を延期され続けてきた『ブラック・ウィドウ』ですが、待たされ続けてきたのはここ1年だけの話ではない。実質的には10年ほども待たれていたのだ。

MCUがスタートしたのは2008年からで、デビューを飾った『アイアンマン』(2008)の続編『アイアンマン2』(2010)から登場していたサブキャラクターの一人が、「ナターシャロマノフ(ヒーロー名:ブラックウィドウ)」であった。

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初めてオーディエンスに紹介された時からナターシャは、その美貌を前提とした「美人だけど/だし強いスパイ」として扱われていた。その後、最初の大規模なクロスオーバー映画『アベンジャーズ』(2012)からは、タイトルのチームアベンジャーズの一員として、 ”死語” を使っていうならば「紅一点」としてその活躍が描かれてきた。彼女にスポットが当たることはほとんどなく、あくまでサブキャラであり、他のヒーローのようなオリジンストーリーが単独主演作品として作られることもなかった。それでもファンや一部の製作陣からは彼女をメインキャラに据えた映画のプロジェクトは兼ねてから噂されていたようだ。

そしてMCUで初めて女性主人公の作品が作られるのは2019年の『キャプテン・マーベル』を待たねばならなかった。MCU作品の中では「21作品目」のことだった。

 

原作となったコミックにはずっと「白人男性のマッチョ」以外もいた…けど… 

そもそもアメコミ自体は、1930年代〜50年代に全盛期を迎えていたもので、当然当初は容易に想像できるような白人マッチョの男たちが活躍するものが多かったようだ。

しかしそこからの転換は早く、例えば黒人で言えば、公民権運動が絶頂に達した60年代にはすでに『ブラック・パンサー』や『ファルコン&ウィンターソルジャー』で主役を張った黒人キャラクターたちがコミックの紙面に登場するようになった。
女性ヒーローは、これはDCではあるが、『キャプテン・マーベル』(2019)よりも2年早く現代の映画館に登場した『ワンダーウーマン』(2017)は、1941年にDCコミックの紙面に登場している。

また、キャプテン・マーベルは1968年にマーベルのコミックに登場した「男性」キャラだったが、70年代の第2波フェミニズムの影響を受け、MCUで知られるキャロル・ダンヴァースがスーパーパワーを得たという設定で1977年に『ミズ・マーベル』という単独コミックデビューを飾っていた。

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同じ70年代には『ワンダー・ウーマン』はドラマシリーズとして実写化され、リンダ・カーターが主演していたようだが、そのドラマも「お色気」「男子のおかず」と言及されるような扱いを受けていたという。

このように、アメコミ自体には、MCUがはじまるずっと前から「白人マッチョの男性」以外のヒーローもいたのだ。
その表象に少なくない問題を孕みながらも、早くから「マイノリティ」とされる人たちが積極的に取り込まれてはいたのだった。

(なお、本記事も参照にしたが、ワンダーウーマンキャプテン・マーベルの分析については、2021年6月発売の新著『ガールズ・メディア・スタディーズ』の竹田恵子の担当章に詳細な分析がされているので参照してほしい。)

 

「女性ヒーロー単独映画は売れない」という神話…打破の鍵は〇〇

時代は一気に飛ぶが、2004年ピクサーアニメーションスタジオ制作のブラッド・バード監督作品『ミスター・インクレディブル』(The Incredibles) が公開され大ヒットとなったことで、アメコミ的なスーパーヒーローモノが、ファミリー向けのメジャー作品として成功することが証明された背景の中で、改めて戦略的にアメコミを実写映画化していこうと動き始めたのが MCUであった。
(ここは記事の目的の都合上非常に雑な記述になっているので、ぜひこちらの本を参照してほしい。 )

 

しかし、映画としてプロジェクトを進めるためには、興行収入が上がるようにしていかねばならない。そこで実写化するヒーローの選定にはかなり慎重に選定を進めたようだ。ポイントとなったのはオモチャが売れることだったという。子どもたちにヒーローたちのアクションフィギュアを見せてどれで遊ぶかを検証する実験などを通して選ばれたのが「アイアンマン」だったとか。その文脈で、女性ヒーローものは(「男児に」ということだろうが)オモチャが売れないから という理由も描かれない一つの理由となっていたようである。

こうして、原作ではリアルタイムの社会運動の影響を受けながら、すでに登場していたはずの「女性」や「非白人」のキャラクターたちは、2008年からのMCUプロジェクトでは、黒人は18作品目まで、女性は21作品目まで脇に追いやられていたのであった。

 

このことについて、MCUの全体を統括してプロデュースしているケヴィン・ファイギ社長は、2018年の時点で次のように語っている。

「15年前に多くの女性主人公の映画が失敗したことから、観客は女性が主役を務める映画を観たくないのだという間違った考えが生まれていたんです。それを乗り越えなければいけなかったんですよ」

(中略)

「私の考えではこれらの映画が失敗したのは女性が主人公だったからではありません。単に良い映画ではなかったからです」

https://theriver.jp/feige-female-hero/

 別の記事でもファイギ社長は

「(現在の)計画が先へ進むと、いずれ全員が男性ではないどころか、主に登場するのが男性ではなくなるという地点に達すると思います。[中略]マーベルのヒーローは半分以上が女性になりますよ」

https://theriver.jp/after-a4-new-hero/

 と語っていたとも報じられているように、2018年の段階ではかなり意欲的に取り組んでいることをアピールしている。当然これは、2017年のDC側が先手を打った『ワンダーウーマン』の興行的な成功が後押ししているのだろうが。

しかしこういったビジネスの世界で「『売れない』と思われている」神話を打破するには、どれだけそれが「神話」であったとしても「数字」が示されないと決定をする人たちの認識や行動に変化が起きないということを示している良い例でもあり、プリンセスの文脈で散々それを語っている身としては渋さを感じる部分である。


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『ブラック・ウィドウ』は10年待った甲斐があったのか?

では、10年も待たされたブラック・ウィドウが主演の映画は、それだけ待った甲斐があったのか?という質問にストレートに答える。はっきり言って、大きなYESだ。

もちろん、メディアにおいて女性が可視化されることは量が増えることはもちろん大切だし、早いにこしたことはなかっただろう。MCUが恐れずに2010年あたりからブラック・ウィドウの主演映画を作っていたらそれは売れたか売れなかったかに関わらず話題になり、影響を及ぼしていただろう。しかし、どんな物語が語られるかということは、ハリウッド全体の状況や、フェミニズムをどう映画に取り込んでいくのかということをめぐる状況が左右するため、仮に10年前に作られたとしても今回のような非常に意義深い作品にはならなかっただろう。

 

「ありのままで」の時代:「ポストフェミニズム」って?

できるだけ難しくならないように書こうと思うが、少々学問的な話をする。
フェミニズムというのはもともと19世紀後半〜20世紀初頭にかけて「革命」で男性たちが手に入れたのと同じ市民権を得るための運動として始まった政治運動だ(第1波フェミニズム)。その後、1950年代〜60年代のアメリカにおける黒人の公民権運動に続いて、60年代ごろから始まり70年代に絶頂を迎えたのが「第2波フェミニズム」であった。こっちをいわゆる「フェミニズム」として認識している人も多いだろう。

しかしこの波は80年代末からは「フェミニズムの目的は達成された」「女性は十分社会進出した」「もはやフェミニズムは必要ない」という雰囲気が漂うようになる。このようなフェミニズムに対して否定的な立場の人が用いた言葉が「ポストフェミニズム」だった。

「ポストフェミニズム」という言葉は徐々にこの「空気感」自体を指すようになり、このポストフェミニズム的状況に対する分析や考察が進んだ。その主な論者たちの中ではいろいろな見解があるが共通していたのが、以下の点だ。

ポストフェミニズムは単なるバックラッシュ(反動・反対運動)と違い、単にフェミニズムを否定するわけではなく、「女性の成功」を称揚するが、あくまで「個人的な成功」に価値が置かれ、「女性の集合体としての社会的地位向上」というフェミニズムの元来の目的については言及しない。

主流メディアでの「フェミニズム的なメッセージ」の取り込みは、現在においてはかなり良く目にするようになってきたことは皆さんのご存知の通りだろう。

このことは、フェミニズムというものをより多くの人に届けることになったが、メディア自体がフェミニズム的になったわけではなく、このポストフェミニズム的な言説を取り込んでいるに過ぎないと批判されることが多かった。

最大の問題は、上の太字で書いたように「個人主義的」になることだ。
皮肉なことにわかりやすいのは、当ブログのお家芸「レリゴー」の吹き替え歌詞に顕著に現れている。

youtu.be

(前略)
とまどい傷つき 誰にも打ち明けずに 悩んでた それももう やめよう
ありのままの 姿見せるのよ  ありのままの 自分になるの
なにも怖くない 風よふけ 少しも寒くないわ

悩んでたことが 嘘みたいね だってもう自由よ なんでもできる
どこまでやれるか 自分を試したいの そうよ変わるのよ わたし

(略)

これでいいの 自分を好きになって  これでいいの 自分を信じて
光あびながら 歩き出そう 少しも寒くないわ

英語の原詞についてはここでは議論しない。あくまで高橋知伽江による和訳吹き替え歌詞について取り上げる。
簡単にいうならば、原詞ではあった「父親からの呪縛」や「(エルサをモンスターと呼び恐る)人々からなにを言われるか」など、外的要因について全く言及しない歌詞になっており、エルサが勝手に背負い込み勝手にとまどい、勝手に傷ついて、勝手に吹っ切れたような歌詞になっているのが最大の問題だ。

ここで見てわかるように、上で指摘されていたポストフェミニズム的な特徴が完全におさえられているのだ。エンパワメントとして成功したように見えるが、女性の「自信」や自己愛、自己評価など、「自己に働きかけること」で全てが解決するように見せている点が、結局は成功できるかできないかは女性の「個人の責任」に転嫁されていくという問題を孕んでいることが顕著に現れている。

本来、差別が構造的な問題であり、その構造の変化をさせるために必要な構造を作っている(オトコたち)側の責任や、転覆させるための女性「たち」の連帯についてはうまいこと言及を避け、構造自体は変化させずに「女性の一人一人が輝けるように自信を持とう」という都合の良いエンパワメントになっていることが最大の問題なのである。

 

もちろんこのようなエンパワメントがもたらす素晴らしい効果は当然あるし、これによって勇気づけられた人たちのことを否定するわけではない。わたしもその一人だ。ただ、ここで終わってはならない。

擁護しておくと『アナと雪の女王』においてはレリゴーは解決策でなく通過点で、最終的にはアナからの愛というものが解決になるようにシスターフッド(女性の連帯)をアンサーに持ってきているのだが、「ありのままで」という曲があまりにも目立ってしまったためにこのポストフェミニズム的メッセージの宣伝塔になってしまったことが大変悔やまれるのである。

もちろんこれは「LET IT GO」を作曲のロペス夫妻が書いてきたことでストーリー自体が全部変わり、急いで作り直したことが影響している点については無視できないので、作品全体の問題でもあるのだが。

(なお、ポストフェミニズムについては、菊池夏野のこちらの著作や『現代思想2020年3月臨時増刊号:フェミニズムの現在』での田中東子の整理を参照してほしい。)

 

 

キャプテン・マーベル』の先を行く『ブラック・ウィドウ』 

 キャプテンマーベルは、竹田が先の著作の中で論じているように、キャロル個人が得た超人的なパワー(MCUのキャラクターでは現状おそらく最強レベル)によって、ほぼ一人ですべてを解決してしまえる展開になっていることが、ポストフェミニズム的であることが批判されている。もちろんMCUにおいて初めて描かれた女性スーパーヒーローとしては、そのくらいの方がインパクトがあったことは確かなのだが、もう少し進める必要があった。

(おそらく、2022年公開予定の続編で、もともと『キャプテンマーベル2』となっていた作品が『The  Marvels』というタイトルに変更になったことからもわかるように、そちらで連帯が描かれるのではないだろうか?と原作をなにも知らない無垢な私は思っていますが笑 どうなのでしょう。)

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では、ブラック・ウィドウはどんな人か? 彼女は、キャプテン・アメリカやハルク、キャプテン・アメリカ(キャロル)のような超人でもなければ、ドクター・ストレンジのように魔術で戦うわけでも、アイアンマン(トニー・スターク)のようにテクノロジーで戦うわけでもない。あるいはソーのような「神の子」でもない。戦闘能力のすご〜く優れたただの人間の女性だ。一人で全てを解決できるような「魔法の力」は持っていない。他のヒーローと同じようなヒーローらしさといえば、この「ヒーロー着地」をすることくらいだ。(なぜこんな言及をするのかは映画を見た方は分かりますね笑)

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そんな彼女が対峙するのは、女性たちの肉体と精神をある方法で完全に支配し、自分自信は手を汚さずに戦わせている「オトコ」が率いる組織だ。その「オトコ」の完全な支配は、あるひとが開発したとある方法で解除できるのだが、そのように「反逆」した女性は、別の支配された女性たちによって「始末」される。女性同士で戦わせ、殺し合わせ、その支配が終わらないように周到に構造として作られている制度なのだ。

映画の中でこの「オトコ」の計画については実際あまり深くは触れられない。一応、悪役のありがちな程度のくらいには説明され、それなりの脅威を持って描かれるのだが、全然深くは描かれない。ヒーロー映画やスパイ映画として見たときには当然この点が残念だと感じた人多いだろう。しかしこれは私は意図的に思えた。あまり詳しくスペシフィックな計画にしてしまうと、この「オトコ」がより広い意味での家父長制的なイデオロギーに基づく女性の搾取というそこらじゅうではびこっている普遍的なことに読み替えにくくなってしまうからだろう。
この「オトコ」の脅威はあくまでもメタファーとして描いているのだということが逆にわかりやすく伝わる描き方だったのではないかと私は捉えている。

そしてこの支配から脱却するための鍵は「女性同士の連帯=シスターフッド」だ。
しかしそれは、アナとエルサのような血の繋がった実際の姉妹関係ではない。イドゥナ王妃がアナとエルサを救おうとしたような血の繋がった親子関係ではない。
(そもそもアナとエルサは本来姉妹じゃなかったが、とか言い出すと面倒なので割愛。)

 

これ以上踏み入ると核心的なネタバレに触れてしまうので詳しい言及は避けるが、血の繋がった姉妹や母娘でなくても、またどれだけ「オトコ」の支配によって対立させられている女性同士であっても、そしてその支配にかつて加担してしまった「名誉男性」であった過去を持っていたとしても、いつからでも女性同士が連帯することは遅くなく、可能であり、それによって「オトコ」からの構造的な搾取・支配から抜け出すことができるのだ、転覆させられるのだ、ということを強く伝えてくる映画に仕上がっていた。
(このあらゆる女性同士というのが、どのような女性同士なのかはスクリーンで確かめてほしい。きっと今この記事を読んでいる映画未視聴の方が想像しているよりもだいぶ踏み込んだことを描いていると思う。)

またその過程で、かつてその「オトコ」による支配に利用される形で、不本意であったとはいえ加担してしまった男性であっても、反省し自分の過ちや弱さを認めれば、いつでもその連帯に協力できるのだということも同時に描かれる。この反省の描写については、まさにヒーロー映画を陽の当たる場所へ引っ張り出してくれた『ミスター・インクレディブル』(2004)へのリスペクトを示すようなオマージュ演出で描いているのも興味深い。

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この作品を「MCU」でやった意義

この映画は確かにMCUの一つの作品ではあるが、単独でも十分楽しめる作りになっている。
裏を返せば、シリーズものの一つでなくても、単独作品としても十分作ることのできる映画である。 
しかしこれをMCUの一つとしやることに意義があったと思う。

彼女自身がずっとシリーズで端に追いやられてきたということ自体が、今回描かれる構造とも近いし、彼女が戦う必要があるのはシリーズの中で彼女を追いやってきた背景にあるイデオロギー自体だからだ。

そして、MCUはこれまで白人マッチョの男性たちを描くことで取り込んできたファンたちも、当然見に行くことになる。単体の作品で女性ヒーローを突然描くよりも遥かに広い人たちにこの映画が届けられることになるのはMCUというビジネス形態があってのことだ。

この意義は大きいと思う。

 

『ブラック・ウィドウ』 を観に行くことが未来への「投票」となる

本作の監督、ケイト・ショートランド監督は次のように語っている。

「(ヨハンソンとは)信頼や親密の物語、女性たちが生き延びることの物語を描くということで意気投合しました。(ナターシャは)厳しい幼少期を過ごし、これまで生き抜いてきて、思いやりがあり、他者を助けている。自分がスーパーヒーローじゃなくても、そんな女性には共感できますよね。だけど過去の作品を観ていると、彼女が視線の対象や物として扱われている場面も多い。ナターシャという人が、ヒーローではない時の彼女がどんな人間なのかがわからなかったりするんですよ。」 (the River)

https://theriver.jp/black-widow-why-10-years/

 

このように、『ブラック・ウィドウ』は、『アイアンマン2』の頃から脇役の「紅一点」として描かれてきたナターシャの背景にフォーカスし、彼女自身が「白人マッチョの男性たち」と肩を並べて戦うという以外の使命を果たしていたんだという過去を描く作品となっており、その過程では、『キャプテン・マーベル』や他社の『ワンダー・ウーマン』も『アナと雪の女王』もクリアできていなかった、血のつながらない、そして対立させられていて、世代も異なる女性たち同士の連帯こそが戦うべき理由であり、勝利できる理由であると描いた作品となっている。

女性のエンパワメントを「個人主義」的な文脈へと矮小化し、オトコたちにとって都合の良い程度までしか踏み出させない「ポストフェミニズム」的なメッセージから、さらに一歩進めた形のメッセージを打ち出し、世界中のあらゆる世代の女性たちを連帯させようとした試みになっている。

 

繰り返しているように、この映画は単独でも十分楽しめる作りになっている。他作品の多少のネタバレは含むが、それが大丈夫ということであればこれをMCUデビューとするのも良いだろう。

 

映画館へ行くことは感染のリスクがあり、手放しで言うことはできない。しかし、映画館でこの映画を見る選択をすることは、今後の、未来の映画における女性の描かれ方の変化に「投票」することになるので、可能な限り感染対策をして映画館へ行くことを薦めたい。

 


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